・光が強ければ影も濃くなる。光の眩しさも、影の支えも、この世になくてはならないものだとすれば、光と影とを見渡し行き来できる者がやがて得る強さは、と予感させる第16回感想。
・そんなこんなで今週は、とにかく道隆兄上の「光が強ければ影も濃くなる」が、何重もの意味で響いてくる回でしたねえ…
貴族と庶民。平和な内裏と疫病が蔓延する都。栄華を極める関白家の強引さと、うっすら不満をためていく周囲。よきことと、汚れ仕事。教養が通じる者、通じない者。愛する者と、愛されない者。いくつもの「光」と「影」。
・定子さま後宮サロンの輝かしい幸福な日々パートで『枕草子』の見事な実写化をしながら、たねの死に まひろが絶望し、それでももがく悲田院パートをも同じ回に入れてくる編成が、「光」と「影」としてあまりにもくっきり濃く、物語の意思が強い。
そして、「影」のほうへ歩み寄ろうとする一条天皇の賢明さを封じ込めてまで、この両パートの乖離をそのまま放置し広げてすらいるのは、ほかでもない道隆自身なんである。
・どこまで意識しているのか分かりませんが、道隆が清く輝かしい嫡男の道を歩めるよう、次男道兼に全ての汚れを負わせ、当の道隆には何も知らせなかった兼家パパのやり方を、今の道隆は、自分が見なかったこと聞かなかったこととして思考の外へ退けさえすれば、それは無かったことにできる、と言わんばかりのやり方へ継続発展させてやいませんか。
問題は、兼家パパと違って、裏で隠れて汚れ役を担ってた道兼のような存在を道隆は持っていないし、しかも今の敵は、毒や騙し脅しが通じる人間ではなく、自然災害であることで。
・『貞観政要』から得た学びを為政者として活かそうとする一条天皇に対し、汚れた下々のことなど気にかける必要はないとやんわり封じる道隆の態度は、それこそ、嫡男だった自分に毒の件も詐病も弟の殺人も何も知らせなかった父の囲い込み方と同じだし、そして、定子との間に皇子さえ産むことこそお上の務めと断じるのも、娘詮子をただ帝の皇子を生む道具として扱った兼家と実はよく似ている。
・また残酷なのは、ひときわ艷やかで美しい場面だった閨の一条天皇と定子、本当に心の底から仲睦まじい様子に描かれてるんですよね。(余談ですが、定子の足元から肩までカメラが上がり、白小袖の背中に波打つ黒髪をゆったり映す演出に、ああ平安時代に豊かで艷のある黒髪こそ美人の証だったとはこういうことか…と、画として強く実感しました。映像の力すごい)
政治的思惑も立場も関係なく、ただひたすら互いを慕う二人の純愛も、もし授かれば夫婦として素朴に喜ばしいはずの子の誕生も、形としては帝の寵愛、関白家出身の后から産まれる皇子という、道隆が野望する「政」へ回収されていってしまう不自由さ。
・なので今回、『枕草子』では女房らだけの日常一コマだった香炉峰の雪エピが、ドラマでは、一条天皇のもとに公任斉信行成らも集う青年エリート親睦の場に改変されていたのが、また興味深かったのです。
彼らの前であえて定子と清少納言がこのやり取りをすることで、中宮様が漢詩に通じ、それに当意即妙できる質の高い女房を抱えている(=中宮サイドは人の才能をちゃんと評価できる)と、若手にアピールできる場となる。かつて、この同じエリート青年層を漢詩の会でスマートに心傾けさせていた頃の道隆のような政治手腕を、いま実は定子さまこそが最も受け継いでいる描写でもあり。伊周ではない。
役割を分断され続けたために却って父の死後はドツボにハマっている兄らを尻目に、実は子供らの中で最も兼家の政治センスをよく引き継いでいるのが詮子ではと描かれているように、道隆家でも、父の長所を最も引くのが定子なのかもしれない。
そうなると定子の今後も、伊周や家隆のやらかしにただ巻き込まれていくだけの被害者にはせず、何かしら政治的主体性を持って動く人物として描く可能性もあるのかなあと。詮子が、ただ兼家パパの犠牲者で終わらず、兼家の血を引いてると自覚した上できっちり反撃を試み、敗北からも学び、着実にゴッドマザー東三条院へ近づいている様が描かれている今作なので。
転んでも自分で立てと教える母・貴子。妬まれても動じないのが肝心と高笑いする父・道隆。
この両親に育てられた定子が、この後訪れる災難でどんな顔を見せていくのか。彼女も今作の女である以上、ただキラキラ光り輝く中宮から転落する悲劇のヒロインとだけはしないかな、とちょっと期待しています。
・ところで、香炉峰の雪エピにとどまらず、『枕草子』の心弾む筆致で描かれる定子サロンの機知あるやり取りの数々は、知識を共有する者同士で心が通じ合う喜びをいきいきと映し出す一方、それを即座に理解できない無教養な人を輪の内側に入れない(と思わせる)側面もあるわけで。
石山寺で作者本人に会えた嬉しさでつい毎度のオタク早口語りをしてしまった まひろに、さわさんがぶつけていた疎外感は、まさにそれだったんだよなあ、と。
相手が何かに夢中になっているとき、ご自身の幅広い知識で理解し対応してくれる定子さまや、たとえ分からなくても鷹揚にドンと構えてくれる倫子さまのような方ばかりではない。むしろ、さわさんの反応が普通。
ここにもまた、もう一つの「光」と「影」。
なので、今回うっかり「影」を作ってしまった まひろにとって、たねの存在はやはり大きかったと思えるのです。
たとえ彼女の父が言ったとおり貴族さまの自己満足が始まりだったとしても、たねが文字を教わり、そして死ぬ間際に呟いたのが、「とと」でも「かか」でもなく あめつちことばだったことは、わずかでも「影」を「光」に引き寄せた証で。
何度も書いているけど、やはり今作の まひろは橋を渡る、こちらとあちらを越境しようと試みるキャラクターに造形されているなと。
(あと、子供のころ読んだ学習マンガで、紫式部が話の流れでオリキャラ庶民の娘に文字を教えるくだりがあってとても印象的だったので、たねちゃんとのエピはそれを思い出して何だか懐かしかった)
才気煥発な人々が集うハイセンスな世界をこよなく愛し、その日々の美しさのみを筆で永遠につなぎとめることに価値と忠義を見出すのがききょう≒清少納言だし、まばゆい栄華の麗しさも、それに圧倒され疎外される無教養で身分違いな者の寂しさ気後れも、等しく込みで拾い上げて描いていくのが まひろ≒紫式部かと考えると、どちらがいい悪いでなく、この対照的な作風で最高に筆の冴えた二人が同時代にいる奇跡と面白みを思うのです。
・いやーそれにしても悲田院での道長との再会は、そこに至る道兼の「汚れ仕事は俺の役目」も含め、90~00年代大河的な懐かしさというか、メロドラマティックでとても良かった。やはりこのドラマ、こういうベタを盛り上げて描くのがめっちゃくちゃ巧いんですよ。 見ている側の気持ちが自然に乗るように持っていく手腕が強い。
道長くんの「生まれてきた意味は見つかったか?」は、生死をさまよう元想い人にかける言葉としては全くもって情緒ゼロですが、しかし、鳥辺野のあと、逢いたい恋しいと切羽詰まった恋歌を送る自分に対し、落ち着け、お前はお前の場所で使命を果たせと剛速球の志を漢文を送ってきた人へ、時を経て返す問いかけだとすれば、これ以上なく正しい。
まひろに託された志を果たそうと踏みとどまった場で思い悩んでいる道長が、今まひろに改めて「生まれてきた意味」を問う。見つかったか?と問う「生まれてきた意味」は、まひろのだけでなく自分のもそうで。そして、それは まひろが死んでしまえば喪われると分かっているからこそ、必死で彼女をつなぎとめる。
ああやはりこの二人、もう恋でも愛でもなく、ソウルメイトなんだな…
・ていうか、道長が狩衣の袖口をシュッと絞るの、そういえばまひろと共に直秀たちを葬ったとき以来じゃないか、と気づいてふと切なくなるなど。
道兼が第1回で犯した罪を今も背負い続け自分を「汚れ役」と思い定めているように、道長の「私は死ぬ気がいたしませぬ」にも、自分のせいで死んだ友たちを葬ったあの日からずっと続く罪悪感からくる汚れへのある種鈍感さが、垣間見える気がする。
第11回で高御座の生首を動ぜず除けたように、この汚れへの鈍感さが、これから後々、道長を勝者へ押し上げるふてぶてしさにもなっていくんだろうなあ。そして、その源がどこにあるか知っているのは、まひろだけだという。
・それにしても今週は、乙丸が大活躍でニコニコでした。
以前から、うちの姫様が一番!なかわいいオーラがあふれてた乙丸、今回は、さわへの手紙で反対したり、危険な悲田院で まひろの気が済むまで看病に付き合ってあげながらも、都度都度もう帰りましょうと促したりと、ちゃんと姫様に意見もするようになってきて。
女房勤めしたら従者はどうなるか分からないけど、できれば乙丸、末永く まひろの側にいてあげて… この安心安定感、視聴者のためにも絶対必要。

