フィクションにおける手塚先生
2025/07/11(Fri)23:42

【あんぱん】眞栄田郷敦さんの出演が決定!

ついに”手塚先生”役が発表。
正直なところ、ここまで前半の『あんぱん』がかなりフリースタイルの史実改変度だったので、このまま手塚先生が出ないことも覚悟してましたが、とりあえず『あんぱん』世界線にもマンガの神様が存在していると確定して、一安心。
今ちょうど作中は1946年夏なので、手塚治虫こと手嶌青年も『あんぱん』世界のどこかで既に商業デビューを果たし、関西マンガマンクラブ会合で酒井七馬先生と運命の出会いをしている頃ですね。

というわけで、フィクション世界での手塚先生を振り返りたくなったので、何年か前の11月3日に描いたイラストを引っ張り出してみた。
(クリックで拡大)

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これを描いたときはまだ全編見通していなかったので入れられていないんですが、銀河テレビ小説版『まんが道』の江守徹さんバージョンも秀逸でとても好き。

その江守徹さんと『手塚治虫物語』奥田瑛二さんが、やはり世間一般にとっての”手塚治虫”と一致するオーソドックスな造形だったと言えましょうか。パワフルな笑顔でブルドーザーのように突き進み道を切り拓いていく、いわゆる「マンガの神様」そのままのパブリックイメージ。

こう複数振り返ってみると、やはり歴史フィクションで手塚先生を描くにおいては、『まんが道』の後輩たちから仰ぎ見られる視点ベースが一般的なのだと、その語りの影響力を改めて感じます。

その点で言うと、例えば主人公が同じ歳だからこその嫉妬と対抗心をギラギラと向ける『チェイサー』、一回り年上の先輩マンガ家がその才能と若さに畏怖を覚えつつ未来を託す『フイチン再見!』など、『まんが道』の見上げ視点とまた一味違う手塚先生も既にマンガでは出てきているので、個人的にはドラマでもそんな多様な描かれ方を見たいところ。

上のイラストに描いた『未来が生まれたとき』で加藤編集長との疑似父子関係を軸に描かれた初々しい青年、『わが家の歴史』のキラキラした目で周囲を残酷になぎ倒していく無邪気な天才小悪魔は、そういう意味でなかなか貴重で印象深い脚色だったので、『あんぱん』もぜひ9歳年上のやなせ先生(モデル)視点ならではの新鮮なフィクション手塚先生が現れてくれるといいなあ。

「嫉妬という言葉だけでは表せないような感情」という制作統括のコメントに、そのあたりを期待したい。

眞栄田さんといえば、『どうする家康』で一点の曇りもない強さと美しさゆえに破滅していく”武田の最高傑作”勝頼様が記憶に新しいので、どんな若き天才・手塚先生を演じてくれるか楽しみ。

 

ところで、ようやく戦後の史実ルートに合流しつつある『あんぱん』で、やなせ先生こと嵩が漫画を描く描写も増えてきましたが、少々気になっているのが、この『あんぱん』世界ではいわゆる「大人漫画」と「ストーリー漫画」との区別は果たして存在しているんだろうか、ということ。

『あんぱん』今現在の作中1946年当時において、もし銀座通いの元商業デザイナー青年が漫画家を志して描くとすれば、当然それは戦前の主流だった新漫画派集団を中心としたナンセンス漫画の流れを汲むもののはずなんですよね。『新宝島』とそのフォロワーから始まる戦後派ストーリー漫画は、この時点でまだ存在していないので。
もちろん画面に出てくる嵩の漫画は確かにナンセンス漫画に寄った体裁ですけど、作中での「漫画」の読まれ方、受容のされ方に、何となく戦後ストーリー漫画と同じような扱いを感じるのです。

言い換えれば、制作側が「大人漫画」と「ストーリー漫画」との違いをはっきり意識されているのかが、正直あまり画面から感じられない。

「ストーリー漫画」の成立を含むマンガ史には様々見解もありますし、まして今回はやなせ先生本人ではなく配偶者が主人公なので、マンガの定義をいちいち詳しく描くのはドラマの流れとして難しいだろうことも、まあ一応分かる。

とはいえ、上京後は独立漫画派に所属したことからも分かるとおり、もともと やなせ先生はナンセンスや風刺を柱とした大人コマ漫画の作家です。
『アンパンマン』以前にも大人コマ漫画の領域ではしっかり実績を出していた やなせ先生が、それでも漫画家として代表作がない状態だったと自伝等でその時期を過小評価ぎみに振り返っているのは、そもそも戦後マンガの主流がストーリー漫画になってしまったのも大きいからで。
それは、例えば学園ラブコメ全盛期に時代劇やSFの描き手が困ったというようなジャンルの巡り合わせ運不運とは違うし、ましてや才能の問題でもない。マンガ=「ストーリー漫画」になってしまったことで、マンガ家の定義、マンガが売れることの定義そのものが変容してしまったという、もっと根本的なものだったはず。

なので、やはり大人漫画とストーリー漫画との区別をつけることは、この後の物語においては、やなせ先生≒嵩という作家の才能や人生を描く根幹にも関わってくることなんじゃなかろうか。

上述したようにトキワ荘史観寄りで描かれるフィクションの手塚先生は、ほぼ後輩たちから仰ぎ見られる姿、つまり『新宝島』以降の手塚マンガフォロワーにしてストーリー漫画の描き手たちから見たイメージが色濃いです。
しかし、当然のことながら『新宝島』以前にも漫画文化は華やかに存在しており、その流れを汲む作家たち(多くは手塚先生と同世代もしくは年上)も、戦後マンガ史の豊かさを彩る重要な一部。

ですから、『あんぱん』で手塚先生こと手嶌先生が登場するとき、そこには単に主人公が9歳年下の当代売れっ子作家を見つめる眩しさだけでなく、新漫画党とは別の確固としたルーツを持つ先輩作家としての視点も入っていてくれたらいいなあと思うのです。
それこそが、やなせ先生をモデルにしたフィクションでしか描けない”手塚治虫”像になるはずですから。

 

 

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