『ばけばけ』が終わってしまいました。
毎日15分を半年間見続ける朝ドラの常として、最終回の時期というのは毎シーズン寂しいものなのですが、何だろうなあ、今回の寂しさは常のそれともまた色合いが違うというか。
「何も起こらない」日常を描き続ける、というテーマが見事ラストまで貫かれていたせいでしょうか、ひとつの物語が完結してしまった寂しさ、というよりも、親しい人が遠くに引っ越してしまう寂しさに近い。
いま半年を振り返ると、この「何も起こらない」を貫き通した作風が、何と味わい深く唯一無二のものだったか。
ろうそくの光を頼りに生きていた時代の手触りを感じる静謐な映像美で描かれるのは、日常で時たま起こり得るおかしな出来事ですらもない、恐らく日記にもあえて書かないし書けないような、あまりにも他愛のないやり取りの数々というギャップ。
しかし、そのギャップが引き寄せるのは、例えば「明治時代に生きていた人々も現代の我々と変わらぬ感情を持っていた」というざっくりした”普遍性”への回収ではなく、どこまでも、本当にどこまでも、明治という時代文脈の中で松野(雨清水)トキが生きるパーソナルな一回性の人生への帰結でした。
逆に言えば、松野トキという個人の物語が終始徹底されていたからこそ、時代の変わり目で立ち尽くす元士族の娘、異国人の作家と結ばれた妻という、時代と切り離せぬ人生の淵からでも、現代の我々がそれぞれの身に引き寄せられるウラメシとスバラシに満ちた物語になっていたのではないかと。まるで、誰かと他愛ない会話を重ね、相違点と共通点とを確かめ合ううち、親しみが増していくように。
そしてそれは、例えばトキのささやかな言い間違い「フロッグコート」から、自分にとって嫌いだったものでも愛せるようになるヒントをヘブンが繊細に見出し受け取っていった、あの愛おしいやり取りとも重なって思えるのです。
不特定多数に共有されてきた伝承そのものでなく、「あなたの話、あなたの言葉、あなたの考え」をこそ聞きたいと願うヘブンに応えて、自分の言葉と考えを通し怪談を語ったトキ。
だから、この半年間の物語も、トキという個人が自分の身体を通し「私の言葉、私の考え」で語ってきた「私 トキの話」だった。
そこには、恐らく「フロッグコート」のようなすれ違いも含まれていたことでしょう。ヘブン視点の認識とは違うところもあったでしょう。だとしても、完全に分かり合うことは不可能な人間同士が、それでも小さなズレさえ愛おしみながら一緒に散歩することは、きっと可能で。
最終回ラストから第1話冒頭へぐるりと戻った夢と現とのあわいのようなあの場所で、トキとヘブンは今後もずっとそのズレをふふっと笑いながら宵闇をスキップしているはず。
そう思える最終回に、だから私は親しい人が遠くへ引っ越してしまうような寂しさを感じているのかもしれません。遠くに行ってしまっても、その人の言葉と考えでつづられる日常はきっと続いていくのですから。
「何も起こらない」日常が、物語となっていきながらも、最後にはそれを語る個人の手元へと力強く引き戻した『ばけばけ』。
軽やかな語り口の底にとてつもない胆力が見え、またひとつ「物語」というものの可能性を考えさせられた作品でした。
スバラシ!
『ばけばけ』関係の記事といえば、放送開始当初こちらの橋爪制作統括と村橋チーフ演出のインタビュー記事がとても印象的でして。
お二人が関わった大河『青天を衝け』が、時代の波に乗った渋沢栄一の話だったので、「いつかその逆を、時代に乗れなかった、流れていった人たち、歴史の影に隠れている人たちがどう生きたかをやりたい」と思っていたという言葉に、とても期待が高まったんですよね。そして実際、そのとおり時代の流れの前で立ち尽くす人々の物語になっていたなあと。
この記事を改めて読み返すと、ほかに幾つか語られている点も含め、終わってみれば全てそのとおりだったものばかりで、やはりこう、制作側の意図とこちらが受け取れたものが合致する作品は、幸せな時間だったなと思うのです。

