”伝説”の形成過程やら何やら
2025/09/27(Sat)18:38

『あんぱん』手嶌治虫先生の出演が終わったので、そういえば世間での評判はどうだったのかなーと久々にSNSを開いて検索していましたら、ちょっと面白いものが目に飛び込んできました。

『ブラック・ジャック創作秘話』第2巻・P118、締め切りに追いまくられパニックになる手塚先生に対し「私は先生を信用して張りつきません!」と宣言してあげた心優しき編集者が、その善意も虚しく原稿を落とされ、会社を辞めてしまった…という悲劇エピソード。
これが手塚先生のいわゆる”クズ”エピソードとして貼られ、バズっていた様子。

まあ確かに、担当編集者を振り回す手塚先生の有名エピは幾つもあるので、その上さらに手塚先生のせいで会社を辞めた人までいたとあっては、なんて酷い話だ!と広く共感を呼ぶのは、よく分かる。

ただ、問題はこのエピソード、その会社を辞めたとされる編集者ご本人が、以前に否定されている話じゃなかったですかね、という点で。


バズっていた件のエピソードが出てくるのは、『ブラック・ジャック創作秘話』第10話「火の鳥をおいかけて」。
この回で取材を受けている元『少女クラブ』編集者・新井善久氏が、当時10誌連載中だった手塚先生とのてんやわんやを語る中で、ご本人の体験とは別に「時にはこんなことも…」と、その辞めてしまった編集者の話を出されています。つまり『創作秘話』制作陣にとっては、又聞きに近い話。

『ブラック・ジャック創作秘話』のこの回初出は、『別冊少年チャンピオン』2012(平成24)年9月号。
しかし、そこから数年遡って2005(平成17)年1月、『ビッグコミック1』連載記事で、まさにその辞めたご本人へのインタビューが実は既にされているのです。
インタビュアー佐藤敏章氏による『神様の伴走者』の第6回、元『中学生の友』編集者・鈴木五郎氏のインタビューが、それです。(連載をまとめた単行本は2010(平成22)年10月発行)

昭和30年から『流星王子』、続けて『おお!われら三人』を担当した話から、インタビュアー佐藤氏が、その辞めた経緯について聞くくだりを、少し長いですが引用。

――手塚先生の原稿がおちたってことが、その後、鈴木さんが小学館をおやめになる原因になったってことはないんですか?
鈴木:それは、まったくないです。…(中略)…真中さん(引用注:当時の編集長)に殴られてね、「じゃあ、やめる」ってんで、昭和33年の2月いっぱいでやめて。
――えっ、編集長に殴られた!原因は何だったんですか?
鈴木 忘れた(笑)。「この野郎」ってね。手塚さんのこととか、そんなんじゃなかったと思いますよ。

そこでインタビュアー佐藤氏が、手塚先生の原稿を落としたせいで鈴木氏が辞めたという”伝説”をお話しすると、当の鈴木氏が「えーー!」と意外そうに驚いています。

――今ではそういう話になっている。
鈴木:それはないと思う。面白いけど、その話は、ウソ。
――手塚先生が創られた話ですかね。…(中略)…それに、話を面白くするのが好きな何人もの編集者が加わって、まるで伝言ゲームみたいに。
鈴木:かもしかもしれない。針小棒大になっちゃうんだよ。手塚さん、平気でウソつくとこあるから。可愛げのあるウソだけどね。でも、そういう話がひとり歩きするんだね。

(佐藤敏章『神様の伴走者』小学館、2010、pp.96-98)

ちなみにこの『神様の伴走者』鈴木氏の章には、『創作秘話』と同じ内容の新井氏サイドインタビューが、業界で語り継がれてきた”伝説”の出典元として併載されているので、『創作秘話』で新井氏が言及されていた”伝説”は別人の似た話ではなく、まさにこの『神様の伴走者』に載った鈴木氏のことだと確定できます。

さらに細かい話を言うと、『創作秘話』新井氏の話では原稿落ちた回数が「3回」とされているものの、正確には1回のようですね。『おお!われら3人』が昭和31(1956)年4月から始まり、翌昭和32(1957)年1月に終了、そして掲載話数は全9回なので、鈴木氏の担当作品で原稿落とした回数はあくまでも1回。
『神様の伴走者』掲載の鈴木氏インタビュー、そして当時の編集長・真中氏のサイドインタビューも併せると、休載1回を挿んで次号掲載(1957年1月号)で第一部完になったのが実際の経緯のようです。

その原稿が落ちた1回も、鈴木氏が入稿ギリギリで宝塚の手塚先生実家まで原稿を取りに行ったはいいものの、原稿を持って戻ったまま家で一眠りしちゃったので、間に合わなかったという。それで昼過ぎに出社してきた鈴木氏をつい真中編集長が一発殴ってしまい、鈴木氏が「じゃあ、やめる」となったようで。

ちなみにこの鈴木氏、子供向けでなく大人ものをやりたいからもともと小学館を辞めるつもりだった、父親の同期・吉田茂に紹介してもらえたので2月末で小学館を辞めて3月から読売新聞に行った~…と辞めた経緯をあっけらかんと語る、かなり飄々とした面白い人物なので、『創作秘話』で新井氏が話す「その人は会社をやめました」の悲壮感あふれる暗いコマとはだいぶイメージが異なります。

つまり、①手塚先生が『中学生の友』原稿を落とした、②その後(実際には1年後)に担当編集者の鈴木氏が辞職した…はそれぞれ事実だったとしても、①と②には直接の関連性はなかったことに。


では、『創作秘話』新井氏の話が”誤り”なのかというと、そうではない。
『創作秘話』で描かれているように、鈴木氏の辞職を聞いた手塚先生が、新井氏を含む他社編集者たちに、原稿をせかすあなたたちのせいで鈴木氏が辞めちゃったんだ~!と子供っぽい八つ当たりしたことは実際あったようなので、新井氏の主観では紛れもない事実でしょう。
問題があるとすれば、たった数年前の関連記事(他社の仕事とはいえ、自分たちの守備範囲とかぶる内容)を確認しなかった、もしくは仮に知っていても注釈として付記せず、聞いたインタビューをそのまま描いて出した『創作秘話』の描き方ではないかと。

各所に散らばり積み上がってきている手塚先生関係者のインタビューも、そろそろマンガに詳しいライターだけの聞き取りでなく、オーラルヒストリーの課題と手法が意識されるべき時期なのかもしれないなあ。それだけ、手塚先生の存在と時代が”歴史”になりつつあるのかもしれませんが。

 

『創作秘話』自体は貴重なインタビューも含む非常に興味深い本ではあるものの、例えば目次に「この作品は事実に基づいて構成されたフィクションです」と小さく入れていたり、第4巻・手塚眞氏の回では、相当にマンガ的デフォルメを加え描いてきたことを自白していたり(それを指摘され作画担当氏が青ざめるコマを入れている)と、内容をそっくりそのまま”事実”として受け取るには取扱い要注意な本だろうと、個人的には思うんですよね。
特に絵に関しては、例えば先生の元アシスタントなど実際に先生と過ごされた方が当時を振り返って描くエッセイマンガと、同じエピソードを描いていても印象の異なることが多いので、画面から受けるイメージに関しては一歩引いて見たほうがいいのではと。
先生没直後から既に何度も語られてきた定番ネタも多く含んでる『創作秘話』がウケたのは、その内容の新奇さでなく、作画担当の方が得意とする凶悪クレイジーな表情の面白さも大きいのではと思われる分、余計に。

手塚先生を聖人君子扱いする気なんぞ毛頭ありませんし、編集者含め周囲の人を振り回した泣き笑いエピソードに事欠かないのも事実ですけど、今回のように別の本と照らし合わせればすぐ真相が分かるような話でも、誤解を生む形で広まり消費され、ひとつの風評を形成していくのは、やはり余り健全ではないなあと思うのです。

では、今回のように単純化された話がもしSNSで面白おかしくバズっているとき、実際はこうだそうですよと書いたとして、果たしてどれぐらいの人が目を留めてくれるんだろうか、とは卒SNSした身に意味のない仮定ながらも考えるのです。
これはマンガ話題に限らないことですけど、一旦そういう属性だと決められネタ化されれば、”事実”など無意味に等しいわけですから。
『創作秘話』も含め関係者のインタビューを読んでいると随所にある、たとえ手塚先生に振り回されてもそれ以上に喜び楽しみがあったと愛おしそうに語られる、その繊細な味わいは、すっぽり抜け落ちていく。


長く手塚マンガを追いかけていると、10年単位で大きく変遷していく世間での取り扱われ方も感じるので、『創作秘話』からさらに切り抜いた一部がネットミーム的にウケるのも、そんな流れの中のいち通過点なのでしょう。

とはいえ、せっかく『あんぱん』で手塚先生に世間の興味が向いているだろう時期なので、やはり『創作秘話』以外の文献も多様に参照されていってほしいなあ。
手塚先生個人の言動だけ切り離して現代人の目で見れば突飛な行動でも、上述した『神様の伴走者』などを読めば、それを取り巻く担当編集者たちも相当にクセがある人ぞろいで、この強烈な面々を相手にインテリお坊ちゃんがよく強かに立ち回ったなあとすら正直思いますし、もっと言えばその人達を取り巻く時代の空気も文脈として読んで、腑に落ちることも多々ある。

決して聖人君子ではないけど、かといって”クズ”と単純化した言葉で語られていい人でもない、その曖昧で白黒つかずで面倒くさい中にこそ、手塚マンガや手塚先生という人間の厄介で愛すべき魅力、そして戦後マンガ史の尽きせぬ面白さが豊かに存在していると思うのです。

「永久にしめくくりがないのが この世界の宿命なのだから」
(『ぼくはマンガ家』より)

 

< 前の記事 ▼一覧 後の記事 >
Copyright(C) 2008 - 2026 baserCMS Users Community All rights Reserved. baserCMS : Based Website Development Project  CakePHP(tm) : Rapid Development Framework