八月納涼歌舞伎『野田版 研辰の討たれ』
2025/08/31(Sun)15:19

八月納涼歌舞伎『野田版 研辰の討たれ』見てきました。

歌舞伎沼にハマって数年。繰り返し上演されてきた作品の役柄を先人のそれと見比べることで、役者ごとに異なる味わいを楽しむという、歌舞伎の醍醐味も覚えてきた今日このごろですが、今回のこの作品では、より一層それが鮮烈で。
発声も軽やかな動きも一見、勘三郎さんそっくりなようでありながら、ここまで違う魅力を放てるのこそが、勘九郎さんの持ち味なんだなあ…と、今まで何度も感じてきたことを改めて思い知らされました。
それは、野田さんと勘三郎さんとのタッグによる再解釈で生まれた、ほぼ勘三郎さん当て書きに等しい野田版辰次だったからこそ、余計に感じたのかもしれません。


幕開けから終盤まで、バケツの水をひっくり返すように大量の台詞を人に浴びせては、騙しごまかし振り回していくのが、この野田版研辰の主人公・辰次。

まるで台風のようだった勘三郎さんに負けず劣らず、勘九郎さんの辰次もまた、台詞をポンポン歯切れよく言い立て、茶化しと真面目をシームレスに行き来する自在の身体能力を存分に見せつけるわけですが、そんな熱気の中にどこか、ひんやりした冷たさが凝っているのが、勘九郎さの辰次なんですね。

それを最も感じたのは、第一場の終わり。
町人という出自、ガツガツした出世欲をひどく見下され、散々に侮辱され打ち据えられた辰次が、そんな侍連中の“誇り”とやらに恨めしく叫ぶシーンです。
「お前ら誰よりも長く生きて、お前ら全員の葬式に出て、にんまり笑ってやる!」

勘三郎さんの辰次が、ちくしょーと叫ぶここは、どこか駄々っ子が拙い悪口を喚いているような可笑しみがあったのに対し、勘九郎さんが叫ぶそれは、もっと低く、どす黒く、じっとり重たい実感を伴った恨み。
いやもう、勘九郎さんが時おり役で見せる底の抜けた暗さが大好物の自分としては、これですよこれこれー!と、思わず拍手喝采したくなる声色でした。ごちそうさまです。

駄々っ子、と書きましたが、勘三郎さんの研辰は、小狡く立ち回ろうとしながらも基本的には稚気が溢れている子供のような男なんですよね。
だからこそ、うまく殿様に気に入られ取り立てられる出世も、ゾッとする死に場所へ追い詰められていく転落も、辰次のその際立った天然の才が無意識のうちに引き寄せてしまった必然に見えてきます。
強烈なトリックスターであればこそ、喜劇も悲劇も全てが主人公の宿命として、主人公たる辰次へスポットライトとともに降り注ぐ。

一方の勘九郎さん辰次はというと、一見、勘三郎さんの辰次と同じような愛嬌と可笑しみを見せながら、しかし常に、理の冷たさとでも言いたくなるものが宿っているのです。
ああ、この辰次は、自分の賢さも狡さも、それが侍たちには忌み嫌われることさえも全て分かって天秤にかけた上で、あえて道化を演じられる計算高い男なんだなあと思わせられました。

そして面白いのは、この勘三郎さんとは違う辰次像は、恐らく勘九郎さんがご自分の持ち味を自覚した上で作り上げたものなのでは、ということで。
事前に公開されたこちらの特別ビジュアル。決して勘三郎さんの辰次はしなかっただろう、この右側の冷めた表情に、己の才覚や世での立ち位置に自覚的で、それでもなお計算高く生きていこうとする勘九郎さん辰次の冷徹な人間性が詰まっていて、舞台を見終えた後にはより一層実感を伴い迫ってきます。


「にんまり笑ってやる!」の台詞に、実現性の薄い悪口を思わず叫んじゃう子供っぽい稚気ではなく、本気で「全員の葬式」まで着々と策を練って道化の皮をかぶり生きていくと思い定めてるのだろう冷たさが、寒々と響く勘九郎さんの辰次。

この辰次が、御部屋様のご機嫌にうまく取り入って利用していたのと同じく、野次馬たちをうまいこと利用してたつもりが、その野次馬にこそ却って追い詰められていく最後は、自業自得だと言われれば、それはそう。

しかし、だからこそ舞台上の群衆の一部となって見ている客席のこちらは、自ら問わずにはいられなくなるのです。
軽薄で卑怯で嘘つきな、そんな共感し難い中途半端な悪人ならば、殺しても構わないのか、と。


勘三郎さん辰次のときは、わいわい持ち上げるしろ蹴落とすにしろ、全てが辰次の一挙手一投足を中心に渦巻いて見えていた群衆が、勘九郎さん辰次と相対すると、一人一人の顔や感情がゾッとするほど粒立って見えたのは、単に映像と現地の違いなのか、それともやはり勘九郎さん辰次が呼び起こしたものなのか。


何かひとつ大きな声があればワッと飛びつき、生死のかかった敵討ちさえも軽々しく娯楽として消費する、群集心理の怖さを描く『野田版 研辰の討たれ』。
令和の今にそれを再演するとき、強烈な悲喜劇のトリックスター性よりも、もっと卑近な生々しさを帯びる勘九郎さんの辰次だからこそ、より重みを伴い迫るものがあった今回。
それこそが、今を生きる役者が演じ、今の観客が見る意味なのだなあと、再演と見比べの醍醐味を改めて感じる作品でした。

そして、私が勘九郎さんという役者のどこに堪らなく惹かれているのかということも。

 


それにしても、この野田版研辰を見ると、別の願望も湧き上がってきてしまう。
勘九郎さんが演じるノーマル版研辰も、ぜひ見てみたいなあ!と。

まだ歌舞伎にハマったばかりの頃、ふと読んでみた出口逸平・著『研辰の系譜』があまりにも面白く、幕見チャレンジで見に行ったのがノーマル版研辰。なので、個人的に思い入れがある演目でもあります。

町人が侍に討たれた実際の敵討ち事件を基に描かれた江戸時代のお芝居『敵討高砂松』をさらに翻案し、大正時代の近代的価値観による敵討ち批判エッセンスを加え、哀れと皮肉入り交じる喜劇へ仕立て上げた『研辰の討たれ』。

野田版研辰だと、家老の直接的死因は病死で、ただ脅すだけのつもりだった辰次が敵にされるのは事故みたいなものですが、ノーマル版研辰だと、辰次ははっきり家老に殺意を抱いていますし、旅パートが始まってすぐ、峠の場で辰次が平井兄の籠を斬り落とす場面で、もう辰次は明確に“悪役”になっているんですよね。


私が見た幸四郎さんの辰次は、野田版の中村屋に負けない暴れっぷりで、その流れのせいか「人殺し!」と叫ぶ台詞にも笑いが起きていたのですが、本来は敵討ちに象徴される封建主義へのカウンターとして書かれたこの台詞、勘九郎さんが思いっきり悪役らしい暗さで演じたら、野田版以上の苦さで、もともとのノーマル版が時代の狭間で帯びていた後味悪さを体現できるんじゃなかろうか。

そんな見比べもぜひしてみたい。
 

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