・琵琶の音に包まれ天へ昇っていく怨讐、よろしくない流れ、私情と政の境目、友との別れ、そして「昔の己」が無言で突き刺す目線。岐路とはつまり後戻りできない道でもある、と思う第18回感想。
・今週は何より、まずは道兼お疲れさまでした、ですねえ…。
いやほんと第1回のときはまだ、道兼にあんな衝撃的な創作設定を負わせたのも、彼を憎い仇にすることで道長まひろのソウルメイト設定を劇的にし、かつ七日関白の史実をただの年表消化にしない布石かなーぐらいに思っていましたので、まさかここまで憐れみを抱かせ去っていくキャラクターになるとは。
満たされるはずのない承認欲求と他責思考で苛立ち暴れながら、そこにはたとえ肯定できなくとも同情すべき、どうしようもない人間くささがあって。愛憎と浮き沈みを超えた最期に、誰よりも身内の温かさを求め救われたいと願う寂しがり屋の情深い次男坊の顔がじんわり残っていったのは、やはり玉置玲央さんの血の通った演技ゆえだろうなあ。
激しく哀しい道兼を、ありがとうございました。
(余談ですが、NHKドラマで玉置玲央さんといえば『サギデカ』の店長も大好きだったので、今回、高杉真宙さんの惟規とは、第8回の為時邸訪問で息子どのは大学か~と話しただけですれ違いだったのは、仕方ないとはいえちょっと残念。店長、加地くんはこちらでは元気に呑気にやってますよ…)
・それにしても道隆兄上死後、道兼道長か伊周かでバタバタ慌ただしい中、それぞれが「誰」を推すかではなく「なぜ」推すかにこそ、個性が現れてくる描き分けが面白い。
実資が、道長を積極的に推さないとしても伊周をあえて「よろしくない」とするのは、道兼のときと同じく、帝のいとこより叔父のほうが序列として当然ではないかという、第1回からブレないうるさ型の彼らしい。
斉信、公任も彼ららしい打算でどちらでも良しと様子見していますが、友人として道長の無欲さを理解しつつも、その政治的資質に実は疑問を抱いているわけではない。
詮子が必死に道長を推すのは、もちろん政敵伊周への危機感もありましょうが、幼い頃から気の強い自分の言うことを素直に聞き、サポート役が性に合って見える末っ子道長こそ、我が子の補佐として安心安全な人物だと思うのもまた母として真実なんだろうなあ。
一条天皇が伊周を関白にしたかったのは、親しい義兄を信頼し選ぶ、そこに若き帝としての自負もあったでしょうが、主要公卿が疫病で死に絶える事態に「これで堂々とそなたの兄を関白にできる」と愛する后に言ってしまった時点で、私情が入ってしまっているのは否定できない。これ、真面目な帝であれば自分でも薄々分かっているからこそ結局、道長のメリットを滔々とまくしたてる母上に詰め寄られたとき、対する伊周推しの明確な理由を挙げられず、逃げ切れなかったんじゃなかろうか。
・そして興味深かったのは、ききょうの道長評。
贅沢を許さない道長の細かさを ききょうが愚痴る話に、まひろが三郎らしさを見出して笑い、そして独りしみじみ「あの人、人気がないんだ…」と噛み締めている背中は微笑ましかったですが、この「人気がない」も、あくまで定子サロンに属する ききょうの主観だと考えると面白いんですよね。
冒頭から、若い伊周の関白就任を渋る公卿たち、定子がぴしゃり指摘する「もっと人望を得られませ」、主要メンバー死去という非常事態でようやく伊周の下へ集う首脳陣、そのチャンスにも演説でうっすら嫌な感じを醸し出してしまう伊周……と、今作において「人気がない」描写を気の毒なくらい執拗にされているのは、むしろ伊周のほう。
定子にもっと人望を得よと言われ意識した結果が、不在の実資に嫌味を言い、前任の叔父道兼の存在をまるっと無視し、帝との親密さをアピールするあの演説なら、公任の「やや人物がマシになっていた」評ですらだいぶ優しい。
今のところ道長は、人気があるない以前にそこまでの存在感はまだないし消している。
そもそも、まひろが道長の「政の才」を聞いたのに対し、ききょうの答えは、中宮さまの要望を贅沢だと退けたことへの非難なので、今作のききょうは、どこまでも定子様推しフィルターで物事を見るように設定されているんですね。
そして道長は公卿に人気がないと言い切っているということは、深い仲であるはずの斉信が、伊周の宴には行かず、道長に目配りし様子見している微妙な動向も、定子サロンに来ていた行成が一方で実は大の道長贔屓であるのも、把握していないわけで。
「偉くなる気も権勢欲もない」は全く正しいですが、周りの女官人気はともかく「公卿に人気がない」とも判断してしまうところに、定子さまとその周囲を愛する忠義者の願望からくる ききょうの見込み甘さがあるとしたら、それはこれから、なかなか厳しいことになりそうだなあ…。
あの事件が起き、そして公卿たち以下の反応を受けたとき、本当に「人気がない」のは誰だったのか、思い知ることになるんだろうか。
・皇子誕生というジョーカーに頼るばかりで、人望人脈の構築を怠る父や兄の、その政治的迂闊さを一家の中で最も理解しているからこそ孤独が深まる定子も、帝の義務と人としての感情に引き裂かれる一条天皇も、国の頂にいるはずの二人なのに、寄る辺ない子供のように抱き合う様がとても切ない。
しかし、この二人の間の愛が美しく純粋なものになればなるほど、ここに送り込まれることになる彰子さまもほんと気の毒というか、道長くんおまえ…て気持ちに今からなっているのです。
・惟規くんに まひろが読みたい!とねだっていた白居易の『新楽府』。やがて女房勤めをしたとき、まひろ≒紫式部が彰子さまに進講する漢文テキストですね。それが、ここでもう出てきた。
山本淳子先生の本によれば、漢文でも定子サロンで好まれたような知的お洒落に生かせるもの、また同じ白居易でも『長恨歌』のようにロマンチックな人気詩文ではなく、お固い政治的な『新楽府』が選ばれたのは、その内容が一条天皇の理念に合致しており、彼を理解し寄り添いたいと彰子が願うからこそ粘り強く学び続けた、との解説がとても印象的で。
周囲が厳しいほどにますます深まっていく一条天皇と定子の絆が描かれた回で、この十数年後に別の女性が一条天皇のため涙ぐましい努力で まひろから学ぶ漢詩が出てくるのは、周到というか何というか…と、少し遠い先の回に思いを馳せてしまいました。
・そして、この「民に代わって時の為政者を正す」漢詩を読みたい!とキラキラ目を輝かす まひろだから、かつて漢詩で志を託した道長に六条の廃院で再会しても、ただ「過去の己に会いに来たのね」と冷静に突き放せるんだなあと。
悲田院での再会、看病された記憶に淡い喜びはあっても、かつてのように必死で抱きつきはしない。
とはいえ、彼にとっての自分は「過去の女」ではなく「過去の己」だと言い切るほうがある意味、直秀を挟み友情を深めてたときや、男女の仲になり妾にと願ってたときよりも、もしかしたら感情はズンと重たくなっているかもしれない。だってそこには、道長を形成しているもの、道長が「己」と認識するものの中に自分が確かにいる揺るぎない確信があるわけですから。
二人が六条の廃院で逢うたび、くるくる変わっていく「ソウルメイト」の意味。果たしてこの1年が終わるとき、物語の落とし所とともに、この「ソウルメイト」の定義もどんな形になっているんでしょうか。

