2024/03/14(Thu)22:57

昼間に受けた『新選組』オリキャラ登場ショックを改めて深堀りしてみると、最終的に、自分が公式二次メディア化作品に何を求めるかに行き着くんだよなあ…と、つらつら吐き出してみる。

これだけ長く手塚オタクをやっていれば、まあ原作そのまま映像にした「だけ」のものもあれば、逆に原作どこいった??とツッコミたくなるものも数々ありまして。
これ、手塚と並行して足突っ込んでる大河ドラマ界隈でも共通のものを日々感じてるんですが、史実≒原作に「忠実」なら絶対正解かというと、そう単純に済む問題でもなく。
前の記事に少し書いたように、造り手側がもともとどれだけ原作(史実)ファンか”だけ”で作品の出来不出来には直結しないですし、むしろ作品に対する「合う/合わない」を造り手側の「愛の有る/無し」としてこちら側が一方的に判定するのも、あまり建設的でない。とはいうものの、自分の中で各二次作品へ対して湧くこの感情の寒暖差は一体何なんだろうなあと、一度きちんと整理しておきたいのも事実で。

で、結局のところ個人の好みの問題じゃないかと言えば全くそのとおりだし、身も蓋もないんですが、その「好み」をどう広汎に勝ち得るか、もっと言えば原作(史実)ファンのそれもうまく掬い上げるかもまた、プロである造り手のセンスと技巧のうちではと思うのです。

例えば大河の話ではもう今年が顕著で、私もともと道長と紫式部が恋仲(もしくは妾)といわれたら本をそっ閉じ中断するくらいに180度の解釈違いで、事前番宣で最も懸念してたのが二人の「ソウルメイト」設定だったんですが、いざ始まってみれば、あーーなるほど、この人物解釈とこのストーリーラインなら二人はこうなるし、この延長線上にあの道長と紫式部になるのめっちゃ楽しみですね納得なるほどーーと血涙でねじ伏せられている状態が、まさに今。

これ、さすがベテラン作家の筆力で創作として単純に面白いから、というだけでなく、脚色する側が元ネタのどこに惚れ込んでいるかが分かりやすく伝わってくるのも大きいと思うんですね。
主人公二人(一歩間違えれば史実の人物から名前だけ借りただけになりかねない)の関係性をただ創作するにとどまらず、というより、むしろ二人をそう動かす背景となる平安時代ならではの政治陰謀劇にこそ筆がノリノリで乗っているのが分かるし、また主役二人に関しても、もちろん物語の肝となる「ソウルメイト」設定に沿う解釈とはいえ、道長の鷹揚で人好きする弟気質、紫式部の内省的かつ世を客観的に見据える視線など、史料から窺える人物像のどこを造り手側が魅力と感じ、拾っているのかがよく見える。そして、その部分にこそこちらも、分かる~~~!と頷けるから、気持ちよく創作部分に酔える。

つまり、造り手側が題材のどこを面白いと思っているのか、原作のどこに感動したのか、そのポイントが作品に反映され、かつこちら側のツボと幸運にも合致したとき、メディア化作品を素直に楽しめるわけで。
たとえ不幸にしてツボが合致しなくても、造り手側が原作推しポイントさえ明確にお出ししてくれれば、なるほどあなたのツボはそちらなんですね、私とは異なる見解ですが興味深いですねと、ふむふむ頷く楽しみがちゃんとある。

思い返せば、自分が手塚二次メディア化作品で好きになったものは、何も原作そっくり、原作そのままな作品ではなく、むしろ、時には作品自体のバランスを欠いてでも造り手側の「手塚マンガの!ここが!好きだ!!」が鮮やかに押し出されている作品でした。

『メトロポリス』には初期単行本期のエモーショナルな描線とフォルムを色彩背景動き込みで再現しよう、したい、してやるという異様な情熱が渦巻いていましたし、平成アトムは、手塚マンガ世界的な人間ロボット二項対立をベースに天馬父子の複雑な愛憎を1年描き切る野望が沸騰していた。ふくやまけいこ先生版メルモは、手塚マンガの丸っこい線で描かれるシビアかつシュールな世界観のギャップを再現しつつ、原典からの幸福な転生にも見えるスターシステムの使い方が絶妙だった。『PLUTO』は舞台版も含め、原典のエッセンスを21世紀現代に照射し拡幅する思考実験だったし、『アトム・ザ・ビギニング』は、原典から分岐したパラレルワールドだと明言しながら、手塚メカギミックのワクワク感や原典のコマ間に流れる時間を丁寧に再定義している。
そして歌舞伎版新選組は、原作の壮絶な悲劇を美しく描出しつつも、60年代手塚少年マンガの良質なジュブナイル作品たる側面も見事に打ち出してみせた。

もちろん造り手が原作への溢れんばかりの愛を持っていても、それが成果物としての作品を通し伝わらなければ意味はないでしょう。
でも逆に言えば、もし造り手が別に原作にもともと興味関心がなくとも、仕事としてメディア化に関わるならば、せめて建前だけでも原作の好きポイントを自分で抽出し、それを原作好き勢に見える形で作品に反映してほしいと願うのは、最低限プロに求めるものとして決して贅沢ではないと思うんですよね。思うんだけどな。

 

今のところ、テレ朝のシン時代劇枠に関し出てくる事前情報では、造り手側が手塚先生の『新選組』の何を、丘ちゃん大作の人物像のどこが良いと思ってるのか、令和の今にこの枠でこの作品をこそ映像化したいと思った意図は何か、正直な話ほとんど見えてこない。少なくとも、制作者が【原作】に対しどう思っているかがすんなり伝わってくる広報ではない。

昼間に見た新規情報で自分がしょんぼりしたのは、そこだなあと、ぼんやり正体をつかめた次第。
やはり自分が手塚二次メディア化のとき最も期待するのは、それに関わる人がそもそも手塚マンガをどう思っているか聞けることという、感想解釈おいてけ堀なのです。おいてけ。

(以上、黒ぢょか2回分あけた勢いで打って推敲もしていない文章)

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