(前ブログから転載)
偉大なる獅子心王が死に、現在王位にいる弟ジョンと、フランス王が後見するアーサー少年、果たしてどちらが真に正当な跡継ぎなのか。
国も貴族も庶民も私生児も巻き込んで、和解したかと思えば裏切り、妥協したかと思えば決裂し、最終的にはジョンの息子ヘンリーのもとにイングランドという国が落ち着くまで、全編ほぼ怒声と悲嘆と戦争だらけという、何とも忙しなく大いなる茶番とも言える物語。
戯曲を読んだ段階では、目まぐるしく風呂敷を広げる展開から、やけにあっさり(むしろ強引に)収束していく終盤に、やや尻すぼみ感も覚えていたのですが。
やはり、台詞を音で聴き、生身の人間として役を見ると、文字で読んでいただけとまた感じ方が変わりますね。この情報量を浴びられるから舞台は楽しいんだなあ。
『ジョン王』を見るに当たって実は一番楽しみにしていたのは、斜に構えた異端児として登場した私生児フィリップが、なぜ後半あそこまでジョン王に忠義を尽くすのか。テキスト段階ではいまいち掴めなかったそれに、どんな解釈が付与されるのかというところ。
王や世間の「私利私欲」に毒づいたフィリップが、ふと冷静になり、この怒りは俺が恋い焦がれる「天使」=金貨をまだこの手に掴めていないからだと素直に認めた第二幕クライマックス直後、第三幕でジョン王もまた、修道院が溜めこむ金貨=「天使」を存分に取り上げてこいと、やる気満々のフィリップに笑って委任する。
ああこの叔父と甥は案外、変なところで気が合っているし、フィリップにとっては「私利私欲」を開放してくれる都合のよいオムファタルがジョン王だったのかな、というのが戯曲を読んだ段階では、自分の中で仮につけていた答えでした。
それが今回、配信で見たコクーン版の吉原光夫さんと、舞台を見た埼玉版の吉田鋼太郎さん、2人それぞれのジョン王像によって、フィリップとの関係性も微妙に味わいが違っていたのが面白い。
威風堂々たる王の容貌にノミの心臓を飼っているような繊細さが滲み出て、玉座も王冠も、母后エリナーの溺愛で合わないそこに押し込められている窮屈なくびきに見えた、コクーン版の吉原ジョン王。
そんなジョン王にフィリップが尽くす忠義は、この哀れな叔父をぎりぎりで見放せない同情のようであり、私利私欲に生きてやるとうそぶいていたはずの彼に芽生えた、人間性の切れ端のようでもあり。
対して吉田ジョン王は、事前の公式動画で中の人らに「乱暴」と笑いまじりで言われていたとおり、まあ板の上で楽しそうに暴れまくる。口に含んだ水をブーッと吹きかけるわ、キスするわ、玉座に乗り上がって立つわ、やりたい放題の駄々っ子です。
この戯曲のキーワード「私利私欲」を、卑小にも壮大にも自由自在に体現する。
そんなジョン王だからか、フィリップが向ける感情も、純粋な同情や哀れみとはまた違って見えます。
すっかり気弱になったジョン王から丸投げのように指揮権を任され、「では、勇気をふるって出撃だ」と答える第五幕第一場ラスト。
本来それは出世を目指す彼にとっては願ってもない幸運のはずですが、そこでフィリップの声色にふと失望と諦念の色が混じるのを、埼玉版ではより強く感じたのです。
イギリス陣営は黒、フランス陣営は白の衣装とくっきり色分けされた中、現代の青年がふらり物語に迷い込む虚実皮膜なプロローグ演出もあって、ただひとり身にまとうパーカーの鮮やかな赤色が、“私生児”という出自の異端性と、この世界を皮肉り客観化する道化の役目の証に見えていたフィリップ。
物語が進むにつれ、黒い鎧で身を固め、実父・獅子心王の仇であるオーストリア公の首をとり、奪い返した父の象徴でもある獅子の毛皮をまとって以降、そんなフィリップの赤色は覆われ見えなくなります。
すっかり黒色に馴染んでこの世界に承認されたはずのフィリップが後半、では第二幕で熱烈に愛を求めた「私利私欲」に微笑み返されたかというと、そうでもない。
王はへたくそに妥協し、枢機卿は目障りに両陣営を行き来し、貴族は裏切り、女たちも負けじと詰り合い(オールメール劇の可憐さと迫力!)、アーサー少年は無惨に死ぬ。
フィリップがジョン王から指揮権を勝ち得るのは、そんな「私利私欲」が行き着いた果ての様々な混乱を見た後であることを考えると、彼の「出撃だ」に混じる失望と徒労の色は、黒い衣装で彼がやっと馴染んだはずの世界に対するものかもしれないし、ジョン王に鏡として映している自分自身かもしれない。(ラストで、フィリップの横で嘆くジョンの息子ヘンリーが、王の死を見て、私もこのようにいつか死ぬのかと己の将来の姿を見ているのも、何だか象徴的である)
そして今回、舞台を実際に見て、あっそうだったのかと気付かされたのは、フィリップとアーサー少年の対比なんですよね。
自分の顔が“父”サー・ロバートそっくりでないことを笑いのめし、お前の父は獅子心王だと泣いて告白する母の不義をむしろ名誉だと褒めそやし、あっさり相続地を手放した身軽さで、出世街道を突き進むフィリップ。
父親ジェフリー(獅子心王の弟)そっくりな美しい顔と、それゆえの相続権を狂気すれすれの愛で主張する母コンスタンスを悲しげに見つめ、いっそ僕がジェフリーの子でなければよかったと言い、最期はその小さなむくろに「イギリス全土」を象徴させられるアーサー。
(獅子心王との不貞を軽く許され、私生児の出生を息子にむしろ喜ばれるフィリップの母と、息子を私生児だと姑に中傷され、私は夫に貞節だったと怒り狂うアーサーの母コンスタンスとの対比でもある)
どちらもジョン王の甥で、一方は愛しい身内、一方は忌まわしき邪魔者。
フィリップ≒現代の小栗青年とアーサー少年が邂逅する、元の戯曲にはないプロローグが付け足されていたおかげで、この2人の対比が、その後の本編中でも常にちらちら目に引っかかる。
獅子心王の私生児=若きプランタジネットとしてジョン王の身内に受け入れられた幸運を楽しんでいたフィリップにとって、同じく若きプランタジネットである出生自体が死ぬ要因となったアーサー少年の最期は、どう見えたんでしょうか。
神も怖れぬ言動をしてきた不遜で自由なフィリップが、この少年の死には珍しく至極まっとうに、恐るべき罪だと動揺し、怒り、そして劇中最も混乱して叫ぶのです。
「この国から真実が飛び去った」「この大嵐を耐えきれる外套とベルトが欲しい」
「天がこの国を睨んでいる」
ここからラストまで、徹底抗戦をとなえ指揮権をとったフィリップ怒涛の(そして戯曲上では尻すぼみにも読めた)対フランス戦と終結は、皮肉り客観視していたつもりの世界に、いつの間にか自分も属していることを思い知らされた青年が、もはやのっぴきならないところまで来たその「私利私欲」に落とし前をつける、彼なりの怒りとけじめにも見えました。
王冠の重さにグラグラしながら耐えている繊細な吉原ジョン王と並ぶと、その弱さについ絆されてしまう青年フィリップの人間くささが感じられたのに対し。
板の上を暴れまわる吉田ジョン王は、その無茶苦茶さゆえに、フィリップが突然巻き込まれ手懐けなければならなかった運命そのものへ目を向けさせる。
本来は部外者で異端児で「私利私欲」に生きるはずだったフィリップが、祖国を裏切りまた戻ってきた貴族諸卿を「正しい軌道に戻った惑星」などと評し、誰よりも先にジョンの息子ヘンリーを「正当な王」と宣言して忠誠を誓い、すべての物事をあるべきまともな位置におさめて物語の幕を閉じる奇妙な捻れ。
これが『ジョン王』という物語であり、またこの物語が描く“忠義”とやらの複雑なおかしみなのだなあと、戯曲を読んでただけでは得られなかった腑に落ちを、舞台の上で生きていたジョン王とフィリップ、そしてパワフルな登場人物たちの口も手も出るバトルに当てられ、得られた次第です。
また、小栗旬さんのフィリップがほんと魅力的だった。
王侯たちの激しい言葉の応酬に茶々を入れる明るい図々しさは、そうでもしなければこの世界に割り込めない“私生児”の不安定な必死さと表裏一体ですし、長い手足を目一杯伸ばして剣をふるい水を頭の上まで蹴り上げる立ち廻りは、獅子心王の子と認められ得た居場所と野心をのびのび満喫している喜びで。
シニカルなようで、幸運に浮かれる軽薄さがあり、王とこの世をなじる潔癖な激しさもあり、素朴な(この作品の良心でもある)ヒューバートと並べる親しみやすさもあり、ラストで国の骨格を定める台詞を言える重い思慮深さもある。
この広い振れ幅で13世紀人フィリップを演じつつ、客席と舞台上を結ぶ「現代の小栗青年」でもあるという、とんでもなく難しい演出まで課されたこの役を、特に埼玉版は、東京版から各地の公演を経たせいなのか、もしくは吉田ジョン王の暴れはっちゃくに引っ張られたのか、生き生き駆け回っていて。
実は今回『ジョン王』チケットを頑張って取ったのは、とても分かりやすく『鎌倉殿の13人』つながりで小栗旬さん見たさも大きな動機だったわけですが、ほんと舞台映えする方なんですね。生で見られてよかった。
フィリップ≒現代の小栗青年が客席から現れまた客席へ消えていく埼玉版の演出、偶然取った席がブロック端の通路側、つまり実質花道横だったおかげで、赤パーカーの小栗さんを至近距離で見られたのは大変な幸運でした。いやあかっこよかった。
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見終わってから感想をネットで検索してみると、今回の演出はなかなか賛否両論のようで。
まあ、たしかに自分も、物語自体への理解とは別に、演出あれこれ自体の咀嚼にはちょっと時間のかかったところはあるなあと。
しかし、フィリップがラストにつぶやく「この国は自分で自分を傷つけぬ限り…傲慢な征服者の足元に平伏することは断じてない」が、あまりにも生々しい意味で響いてしまうこの時期だからこそ、あの一見過剰とも思える数々の演出、少なくともフィリップを現代の青年と重ねて雑踏から引き込みまた戻すエピローグとプロローグは、必要だったのではとも思うのです。
あの台詞を客席にポーンと投げたまま幕を閉じることで、その台詞だけが文脈から切り離され独り歩きし、戦争を肯定、賛美するメッセージとして受け止められることがないようにという造り手側の慎重かつ強い意志は、感じられました。様々な事情で、今この年に『ジョン王』を上演することになっためぐり合わせへの、責任感というか。
物語の「私利私欲」を客観化する役割を担っていた異端児のフィリップが、最終的には作中で最も“まとも”な、しかしそれは切り離せば愛国的とも取れる行動と台詞で、物語の一部になって終わる作品なだけに、最後にもう一度、今度は「現代の小栗青年」が剣を捨て衣装を脱ぎ客席に帰ることで、フィリップ自身を客観化する。そんな過程が必要だったのでは、と解釈しました。
(ただ、反戦フォークソングは、自分が元の曲をほぼ知らないこともあってか、あまり演出効果を理解できなかったのが残念だったな… 曲の背景をちゃんと知っていれば、もっと意味が分かって心に響いたのかもしれない)
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で、ここから下はジョン王からちょっと外れますが、『鎌倉殿の13人』に飛んだ連想。
配信と舞台、吉原ジョン王と吉田ジョン王の両方を見て、やはりつくづく思うのです。
あーーー和田義盛を経た横田さんが、どんなジョン王を演じるのか見たかったなー!と。
愛嬌と浅慮が同居した「あの人を嫌いな人などいない」からこそ、魅力的で厄介な鎌倉殿版義盛の人物像については、前に別の場所で書きましたが。↓
https://privatter.net/p/9452180
チャーミングで考えなしゆえに、政治家としての小四郎にとっては葬らざるを得なかった和田義盛という男を見事に成立させた横田さんが、では“史上最低の王”ジョンをどのように演じ、そして小四郎から転生した小栗さんフィリップに、いかに離れがたく最期まで忠誠を尽くさせたか、いやあ見てみたかった。とても見たかった!
で、横田版ジョン王を想像していて、ふと連想したこと。
鎌倉殿版義盛は、たしかに可愛らしいのですが、同時になかなかずるいところを持つ男でもあったんですよね。しかも無自覚で。
特にその点が現れていて恐ろしいなーとリアタイ時に思ったのは、二俣川合戦回。
とうとう戦するしかなくなった重忠を説得するため、単身乗り込む義盛。
誰が戦などしたいと思うか!と血を吐くように叫ぶ重忠と、彼に心から同情し、もっと生きようぜと声をかける義盛との対話は、本当に良いシーンではあるのです。
あるのです、が。
その直前、小四郎の預かり知らぬところで、しかも重忠を追い詰めた時政パパでさえ殺さず捕らえよと厳命していた重保を、いくら平六主導だったとはいえ殺し、「坂東武者として立派な最期だった」と涙していたのが他ならぬ義盛だったことを考え併せると、「息子をだまし討ちにされた」と怒る重忠に何も言わず、何も知らない顔で、ただひたすら本気で同情を寄せている義盛が(また、それが所謂いい場面になっていることが)ちょっと恐ろしい。
しかも、時政がせっせと開戦準備していた間、何も知らぬ小四郎は重忠説得と戦回避のため単身で動いていた哀しいすれ違い、だからせめて戦を止めるため総大将を願い出た経緯を全て知っていながら、「小四郎殿の言葉を信じてこのざまだ」=騙されたと思っている重忠の誤解を解こうとはしないし、結局は戦で決着つけようぜ!とええかっこしいで帰ってきてしまう。
重忠と義盛とが培ってきた友情の総決算、視聴者の紅涙も絞るはずの美しいシーンの暖かな会話に、ある意味では小四郎に全ての罪を押しつけ成立している構図があり、しかもそれは計算でも何でもなく、ただ目の前の男の悲憤慷慨に共感する義盛らしい素直さゆえの結果なのが、余計に怖いのです。(そもそも『鎌倉殿』自体が、こうめくった皮の一枚下にひやりとするグロテスクなものが、あちこちに隠れてる話でもある)
とはいえ、義盛のこの時に狡さにも傾く天然さ、単純さを、実は小四郎さえ含めた周りが許し愛し助長している節もあるのが、また厄介なんですよね。
「バカ」と好き放題言いつつ梶原弾劾のときなどその勢いを利用する平六や、あの人は自分と正反対のことをするからとうまく誘導することも実は度々だった重忠だけでなく、小四郎でさえも、辛い決断をして何も考えたくないときは義盛の家で酒を飲む。
二俣川合戦で、義盛の得意げな(でも重忠にバレバレの)戦術提案が小四郎平六に受け入れられるのも、実はもう最初からアテにされておらず、あなたは好き勝手やっていいよと放置されているからです。
「難しいことは分からんぞ」と自分で言い、実際そのとおりの言動を重ねたまま歳を取ってきてしまったことは、“ありのままの自分”を周りに愛されていると同時に、軽率さや幼さを矯正される機会を与えられなかったことでもあって。
二俣川合戦で本筋とは別に、よく考えれば怖いな?と思わせるこれらが、やがて和田合戦に至るあれこれの下地になっている。
で、ここでふと思い出した三谷作品が、舞台『不信』(2017年)。偶然お隣同士になった二組の夫婦が、嘘と嘘で互いに不審を抱いていく不条理サスペンスです。
この作品、ミステリとしても嫌な後味(褒めてます)が印象的だったんですが、特に怖かったのは登場人物の一人で、若いころは恐らくちょっと世間離れしたところも弱さも“可愛い”で済まされてただろう人が、たまたま包容力ある配偶者を得て愛され守られ、年相応の分別も世知も身に着けず幼いまま年を取り、その幼ささえもまた身近な人にやんわり愛され(もしくは遠巻きに放置され)たため、成長する機会を得損ない、自己認識と周囲とのギャップだけは残酷に広がっている状態の中年、という人物像の解像度が、ちょっとぞっとするぐらい高かったんですよね。そして、その末に至る限界と崩壊と悲劇。
『鎌倉殿の13人』は、人の根本はそう簡単に変わらないし、能力値限界以上のこともできないと繰り返し描いているのが、残酷で救いでもある物語でしたが。
いわゆる癒し系として稚気を愛されるまま年を取っていく人がいるとして、周囲がそれをそのまま愛する“無責任”に対し返ってくるものもまた、容赦なく描いていたなあと改めて思い返し、つらいなーーーとごろごろ転がっているのです。主に小四郎について。
坂東武者らしい坂東武者である義盛の稚気を、執権としての義務感を取り除いたら実は誰よりも、恐らく宗時兄上や上総介への郷愁も込めて愛していたのだろう小四郎。政子と泰時の純粋さ(それは物語中では政を理解できない幼さとしても描かれ、実際泰時の中の人いわく「子供」であることは終盤まで意識されてる)を愛し保護しようと孤軍奮闘した小四郎。それで返ってきたものをクソ真面目に受け止めるしかなかった小四郎。あーーーつらい。
…というわけで、『鎌倉殿』を経た横田ジョン王と小栗フィリップ、やはり見たかったですね。
できの悪い末っ子として母上に溺愛され王座についたジョン王のダメさを、虚勢を、哀しみを横田さんはどう人間くさく演じたか。そんな横田ジョン王の「私利私欲」を小栗フィリップはどんな顔で評し、励まし、最期までついていくのか。
23年になってもいまだに心が鎌倉をさまよっている、諦めの悪い亡者の妄想。

