そして少年は花道をいく / 歌舞伎『新選組』感想
2022/08/26(Fri)22:16

(前ブログより転載)

八月納涼歌舞伎 第一部『新選組』

これまで、ストレートプレイはもちろんオペラ、ミュージカル、宝塚などなど様々な形で手塚マンガの舞台化はされてきましたが、手塚マンガが歌舞伎になるのは意外にも今回が初めてなんですね。しかも、自分が歌舞伎にハマったきっかけであり、新作への柔軟性、瞬発力で信頼できる当代中村勘九郎さんが長年温めていた企画とあっては、もう行くしかない。

私が観劇できた25日はちょうど、本来の主演である中村歌之助さん、福之助さんが休演だったため、七之助さん、勘九郎さんがそれぞれ代役を務められた期間の最終日。本役で見られなかったのは残念ですが、代役バージョンは恐らく映像や写真も残りづらいと思うので、これはなかなか貴重な観劇体験でした。
というわけで以下、代役バージョンを見ての手塚オタクとしての感想。役者ファンとしての感想は後半に。


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まず思ったのは、この原作をよく1時間ちょっとにまとめたなあ!という驚き。私が見た日は、演出の変更や代役お二人のテンポもあってか、本役バージョンよりもさらに短かったらしい。書割の転換、「もとがマンガだから展開が速いんだよ」と登場人物が自分で言っちゃうメタ発言で、まあ気持ちよく話がさくさくと進む。

この省略、入れ替えが巧いなと思ったのは、原作と変わった部分のつなぎ目が、丘十郎の成長という大きな筋をきちんと際立たせるために機能していることで。
例えば、松永を斬った夜で序幕がストンと終わり、第二幕は、父の仇・庄内との立合いへ向かう丘ちゃんを大作が追いかけ、君の剣は汚れていると忠告するところから始まる。入隊試験であんなにヘロヘロ腰の少年だった丘十郎が、心ならずも松永を斬ってしまう経験によって、庄内さえ斬れるほどの剣士へ急成長してしまった皮肉、時間経過を、これだけで無理なく伝えてくるのです。

また、原作では芹沢を暗殺してから近藤局長の申し渡しを待つ間に、八重と南無之介の仇討ちが入ってきますが、歌舞伎版では、二人が芹沢を斬った直後にもう近藤局長がやって来て不問にするスピード展開のため、芹沢暗殺の次の場、全て終わったつもりで晴れやかな心でいる丘十郎を急襲するように仇討ちが入ってきます。
悪役芹沢の大きさでふと忘れかけていた過去が追いかけてくるようで、「仇討ちの虚しさ」というテーマを一層強調するとともに、直後の場で土佐藩士の襲撃もあることで丘十郎の徒労感をさらに畳み掛け、そこから汁粉屋の密書、大作の正体発覚、決闘へなだれ込んでいく絶望の流れが、感情コントロールとして強い。

個人的に、橋之助さん演じる南無之介のキャラクター造形がすばらしかったこともあり(なんなんだ、あの花が似合うキザな着流し男は。最高だ)、原作どおり丘十郎を何度も追い詰める凄腕だと分かるよう、間にもう一回ぐらい立ち合う場を入れてほしかった、と惜しい気持ちがありますが、このスピードでなければ出せないクライマックスの緊張感もあったのだろうなあ。

絶望の淵から坂本にすくい上げられた丘十郎が外国へ行く決意を静かに語る、その後ろで展開される近藤局長たちの池田屋襲撃。
それを丘十郎が後にして去る“過去”だと宣言するかのように、バサッ!と幕が覆い隠し(この幕の絵が、原作ラストの丘十郎が乗る船のコマなのがまたいい)、丘十郎が花道を引っ込む幕切れの爽やかさは、まさに舞台、歌舞伎ならではの鮮やかな転換と締め方でした。


『新選組』といえば手塚ファンにとってもはやセットと言っても過言ではないのが萩尾望都先生による集英社文庫版『新選組』巻末解説。
こちらでは、戦争によって死の予感と覚悟を刷り込まれ、しかし突如終戦で新たな未来を得た手塚先生の青少年期体験が、喪失と再生を繰り返す手塚作品の世界観に反映されていると解き、大作(=死の予感)と丘ちゃん(=新たな未来の萌芽)の関係にそれを重ねています。
原作ラストシーンのナレーション「新しい世界が待っている」の後ろに「か、どうか、解からない…」と足したくなる、と萩尾先生が解説されているように、確かに原作ラストは、晴れ晴れとした旅立ちながらどこか虚無感も色濃く残る。
対して今回の歌舞伎版は、今度帰ってくるときには、京が、日本が、どうか少しでも良くなっていれば…と、旅立つ丘十郎にはっきり語らせ、前を向かせます。喪失よりも再生へ向かう未来、萩尾先生の解説で言うところの「新たな未来への萌芽」のほうがくっきりと際立つ脚色。

手塚マンガといえば、近年とみにいわゆる鬱展開であるとか黒手塚であるとかが取り上げられますし、それも重要な一面ではありますが、それだけで何か深い読みのように語られてもなあとファンとしては個人的に思うところはあるんですよね。むしろ“黒手塚”論を殊更もてはやす層が切り捨てる、理想主義的な純粋さ、善なるものへの切望、言葉にすれば陳腐になりかねない高いテーマ性を、あらゆる表現を動員して“面白いマンガ”に仕立ててしまうところに、40年第一線で居続けたマンガの神様の凄みがあると考えるわけで。
(ただ鬱展開=陰惨な「だけ」の作品群が、これほど長く読みつがれるかという話でもある)

今回、丘十郎という少年の成長に焦点を当てた『新選組』歌舞伎のまとめ方は、手塚マンガのテーマ性へ斜に構えることなく真正面から向き合い、かつそれを舞台としての面白さ、カタルシスにまでつなげることで、手塚マンガ、特に60年代以前の少年向け作品が持つ良質なジュブナイル作品としての側面を見事に抽出してくれていたなあと思うのです。

この作品の歌舞伎化を長年切望していながら、若手に演らせたほうがいいと成駒屋の兄弟に任せた勘九郎さんの慧眼よ。ジュブナイル作品として見るならば、たしかにあのラストは、若い方に主演させてこそ納得の幕切れでした。


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また、これだけ速い展開でありながら、細かい手塚ネタが多いこと多いこと。さすが脚本の咲十郎さんが、1989年の青山葬儀場に中学生の身で参列したほどの手塚ファンというだけのことはある。(※事前の配信番組でのご発言より)
「どろろ…じゃない、どろどろの」にはちょっと執念すら感じて笑ったし、まさか歌舞伎座の下座音楽でアトムのOP曲を聞ける日が来るとは思いませんでしたね…
書割も、マンガのコマ割りをそのまま活かしたものだけでなく、通常の背景画もきちんと60年代手塚タッチの丸みを再現しているのには感動したなあ。70年代以降のリアルな劇画タッチを取り入れた背景ではなく、ちゃんと60年代作品の背景なんですよ。特に、河原に生えた草の描き方。あの書割もポストカードにしてくれ。

ロウソク立てたランプの土佐藩士、ヒゲオヤジの夜回り老人、ピノコの町娘、庄内の遺体を見るB・J先生というあたりの、とにかく出していこうぜ!精神スターシステムには、ちょっと24時間TV用アニメ的なお祭り精神も感じました。うん、8月だからちょうどいいのか。


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そして今回感嘆したのは手塚マンガと歌舞伎との親和性。『風雲児たち』歌舞伎を見たときも驚きましたが、マンガの持ち味をそのまま板の上に再現してしまう歌舞伎の懐深さをつくづく思い知らされました。

また考えてみれば、戦前戦後の時代劇作品に歌舞伎の影響がある以上、その要素を手塚マンガも引用・孫引きしているはずなんですよね。歌舞伎にハマったばかりのころ、立ち廻りでバタバタッと見せる捕手の動きが、手塚マンガの特に60年代以前のアクションによく似ているなあと思っていたのですが、それも当然のことで。今回も、『新選組』冒頭のふすまギャグをそのまま再現するのには嬉しくて笑っちゃいましたが、そのふすまを刺す追手たちの動きが、歌舞伎の立ち廻りでありつつ、手塚マンガの動きの再現と見ても違和感ないことに改めてハッとしました。

上述したメタ発言も、いかにも手塚マンガ的でありつつ、新作どころか古典まで案外メタ発言が出てくる歌舞伎だから、全く世界観を壊すことなく溶け込んでましたし、『どろろ』や『三つ目がとおる』に引っ掛けた台詞も、いかにも歌舞伎らしい洒落でもある。
そういえば、大作の「今の君は焦げた汁粉だ ヤケで食えないってこと」もオリジナルのはずですが、ものすごく手塚作品っぽい台詞でしたね…。こういう気の利いた台詞回し自体が、そもそも歌舞伎をはじめ古典から連綿と続く日本語感覚として、手塚マンガ(もしくはある世代までの大衆娯楽作品)にある要素のひとつなのだろうなあ。

メタギャグも駄洒落も他作品からの引用も、その場でくすっと笑わせつつシュールに走りすぎることなく、本筋のシリアスな(時にペシミスティックな)展開をぶち壊すことがない手塚マンガのこの絶妙なバランスが、そのまま生身の人間で再現されていることに、歌舞伎の奥深さ、凄さを改めて。


『新選組』以外にも、これから手塚マンガがどんどん歌舞伎化したら嬉しいな。
『火の鳥』はまず誰もが思いつくだろうし、幸四郎さんがやりたいという『どろろ』もきっと似合う。『はりきり弁慶』も、いっそ原作の安宅の関が『勧進帳』パロディであることをそのまま活かして歌舞伎化したら面白いはず。少女マンガでは『あらしの妖精』も、姫の入れ替わり、二枚目の浪人が実は…の設定などがいかにも歌舞伎にぴったりだと思うんですよ。鰯売のように擬古典的な台詞回しでやったら、江戸時代後半ごろの復活狂言だと案外思われたりして。
どうか今回の上演と好評ぶりが、今後もいい形へつながりますように。


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で、ここからはただの役者ファンとしての心情強めの感想です。
いやーーー勘九郎さんの大作、七之助さんの丘十郎、すばらしかった!
これは若手に演らせるべきという勘九郎さんの企画意図は、舞台を実際見てもなるほどと納得でしたが、それでもこの瑞々しい少年剣士二人を代役で演ってしまう、演れてしまう中村屋兄弟のおそろしさよ。
でもまあ勘九郎さんはついこの間、朗読劇『バイオーム』で8歳の男児と女児を演じ分けていたのだから、十代の複雑な少年を演じるぐらいワケないのか。いやそれにしても。

勘九郎さん、特に映像作品では明るくて人のいい役のイメージが割と一般的に強くあると思うのですが、歌舞伎で悪役、また虚無を抱えた役を演るときは、本当にぞっとするほど底が抜けた暗さを見せるギャップがあるんですよね。その上、凄まじい身体能力で華麗な立ち廻りを魅せる人でもあるので、なるほど大作という役は勘九郎さんの良さを存分に堪能できる役なんだなと。

立合いの相手を煽る人を食ったような態度にも、「僕が本気を出せば相手を殺す」の空恐ろしさにも、ふしぎと憎めなさが漂う乾いた明るさ。親の仇をとるんだ!と肩肘張らせている丘十郎の懐にもスルッと入ってしまう懐っこさ。
どこかアンバランスにも見えるばらばらの要素を、大人びた少年(それは鮮やかに成長していく丘十郎との対比でもある)という像の中に結び合わせてきた果て、その正体が顕になって丘ちゃんと対峙する大作が、改めて一人の孤独で諦観を湛えた、それでも丘ちゃんと出会えた日々を何よりも尊く思っている少年として浮かび上がる勘九郎さんの演技が、たまらなかったですね…。

原作では、親友を斬れと言われ苦悩しながら歩く丘十郎の大ゴマ、そして大作に近づいていく丘ちゃん目線の3コマが続き、何も言わない大作の感情はどこまでも読者の解釈に委ねられています。
それが歌舞伎では、まるで原作マンガを大作目線で反転したかのように、命令を受け呆然と舞台の真ん中で立ち尽くす丘十郎に、大作のほうが呼びかけながら花道を近づいてくる。一度目は遠くから「丘ちゃーん」と明るく呼ぶ声。二度目は「きゅーぅちゃん」とおどけて甘える声。そして三度目の「丘ちゃん」は、君も全て分かってんだろ?と覚悟を促すような静かな声。
「丘ちゃん」と友を愛おしく呼ぶ声に、この子はどれほど切実な喜びを毎回込めていたのか、甘い汁粉を食べても食べても埋めようのなかった空洞を満たそうとしていたのか、という圧倒的な哀しみが、花道の七三にポツンと立っている。

ああなるほど今回、勘九郎さんの大作というキャラクターへの解釈はここに眼目があったのだなあと、マスクの上辺が危うくなるほど思わず泣いてしまいました。
(その流れで、『阿弖流為』田村麻呂を彷彿とさせる重心低い構えをされては、もう降参するしかない)


七之助さんの丘十郎も、ふだん女方、特に勘九郎さんと組まれるときは男女の役が定番なので、お二人とも立役、しかも親友同士で立ち廻りまで見られる役だったのは、本当に良かったなあ。勘九郎さんとあそこまでバチバチに剣を交わす役、もしかして『阿弖流為』以来でしょうか。すばらしかった。良いものを見られた。どうか年末の中村屋特番などで映像として残りますように。

女方としての七之助さんは、蓮っ葉な美女から気高き貞女、おぼこい娘までまさに変幻自在の方ですが、まさか立役でも、十代の純粋な少年という幅広さをこの歳で見せていただけるとは思いませんでした… いやすごかった。ちゃんと少年マンガの主人公だった。
また原作マンガを忠実に再現してくれたあの長いポニーテールが、映えること。正体を明かした大作の胸にすがり、なぜだどうしてだと泣き震わせる肩にはらりと乱れる髪があまりにも美しくて。大作を失っての慟哭も、まるで子供のように全身で泣きながら、友を自ら斬ってしまった恐ろしさを必死で受け止める青年の叫びでもあり、こちらの心が抉られるほどでした。

歌舞伎に、そして中村屋兄弟にハマった始まりが『野田版 桜の森の満開の下』だった身としては、あのラスト、夜長姫を愛しいゆえに殺さなければならなかった耳男の慟哭も思い出し、ああご兄弟なのだなあと思ったり。そう、まるで耳男と夜長姫の反転のようでもあったんですよね、勘九郎さん大作と七之助さん丘十郎…


そして七之助さん丘十郎の美しさにふと思い出したのが、石上三登志氏『手塚治虫の時代』に出ていた話。
石上氏が鈴木清順監督に手塚マンガを見せたところ、「男か女かわからない絵の描き方」と言われたエピソードから、どっぷり浸かってるファンは無自覚に受け入れがちだが、手塚マンガのキャラクターは実は相当に中性的(もしくは非男性的)であるという話に、『新選組』が萩尾望都先生に与えた影響と併せ、少年マンガでも美少年のキャラクターが出てくる手塚マンガの特殊性が語られています。(ここから手塚ファンの世代論になっているのも面白いですが、それはまた別の話)
私自身もあまり意識してなかったのですが、『新選組』丘十郎を少年マンガ主人公であり、かつ中性的面持ちの美少年キャラクターとするならば、ふだんは女方の七之助さんが丘十郎役をされるのも、いい配役(代役)だったのだなあと思った次第。
うん、やはり良いものを見られた。


彌十郎さんの芹沢鴨は、あの背の高さ、憎々しさがまさに原作の「スターシステム俳優ロンメルが演じる芹沢鴨」として主人公に立ちはだかってくれたし、虎之介さんの沖田は、中村屋兄弟の大丘を前にしても頼れる(そして非情な)先輩オーラ出ているのがすばらしかった。配役発表前から予想し期待していた鶴松さんの八重役は、ただ可愛いだけで終わらない魅力が短い時間でも出てくれて嬉しかったし、亀蔵さんの近藤局長も急な代役だけどハマっていてさすがの貫禄だったなあ。冒頭で切腹させられる橋吾さん堀内の見事な原作再現度も含め、本当に隅々までよかった。


というわけで、長年の手塚ファンとしても、にわかに歌舞伎にハマったばかりの中村屋ファンとしても、大変満足な歌舞伎化でした。
本役でのバージョン(復帰おめでとうございます!)も、配信されたら感想書きたいな。
 

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