カムカム再放送第20週
2025/04/08(Tue)23:54

カムカムエヴリバディ 第20週「1993-1994」

 

#093 4月2日(水)


・ひなたと桃太郎にとっては余りにも意外なお父ちゃんの過去、しかしここまでジョーと るいの人生を見てきた視聴者にとっては、実はそこにずっと存在していた痛みが久々に現れてギュッと息が詰まる「それでも人生は続いていく」回。

・大月の呑気なお父ちゃんでありつつ、夢破れて死さえ願ったトランペッターでもある、そんな光と影を並立させながらポツポツ穏やかに語るジョー。
百年の物語『カムカム』を貫くテーマのひとつだろう台詞「それでも人生は続いていく」をそのまま体現するジョーという役が、脚本・藤本さんのご指名でアテ書きだった意味をしみじみ噛みしめる。

・サニーサイドの申し子ひなた編に入ってからこっち、すっかり大月のお母ちゃんお父ちゃんの顔で平和な日常にいい意味で埋没していた るいとジョーが、ここでトランペットを持ち出し過去の話をした途端、大阪編のしっとり傷を抱えた雰囲気を一気に蘇らせるのが、やはり何度見ても鮮烈で凄いんですよね…。

もしかして、ジョーさんの吹けないトランペットから出るあの掠れた音を るいが直接耳にするのは、このとき初めてだったんでしょうか。
桃太郎が産まれた頃からもう病院探しもしなくなった。それに るいも気づいていたろうけど、それでもまたジョーのトランペットが聞けることを信じ続けていた歳月。
吹っ切れたというジョーに震えながら「嘘やんね?」と聞く るいの顔が、トランペッター錠一郎と恋する繊細なサッチモちゃんの顔に戻っている。

・ひなたたちがアホな喧嘩をしなければ、おそらくジョーも子供たちには自らの過去を話すことはきっとなかったんだろうなあ。
トランペッターとして辛すぎる、だからこそ黙ってきたこの重い事実をついに話したのは、子供らに再び ひなたの道を歩いてほしいから。「ひなたと桃太郎のいいお父ちゃんとして生きられたら、それでええ」を言葉どおり実践してきたお父ちゃんの気概を感じる。

日によって「君」と「私」の意味が違って聞こえる主題歌『アルデバラン』の「君と私は仲良くなれるかな この世界が終わるその前に」が、この回はジョーさんとトランペットに掛かって聞こえる。
大阪編でまだ るいと出会ったばかりの頃、忘れ物のマウスピースを「迷子」と言い表していたように、ジョーにとってずっと親しみ深い友達だったトランペット。そのトランペットが吹けない現実を突きつけられ続けた30年を、「トランペットが僕にさよならを言うてる」と言い表す柔らかな切なさに、ジョーという人の芯を思うのです。

そして、そんなジョーに「さよならを言うてる」のは実はトランペットだけで、音楽全てではないのが、カムカムという物語なわけで。
2周目だと、この回の後半で、商店街クリスマス福引でジョーの後ろにあの景品が映り、そして算太が登場する締めに、ああ……と再び息を呑みますね。


・若者らしい視野の狭さと必死さでどっちがみじめか合戦してたところに、突然父母の過去話を出されても、だからそれが何だと反発せず、お父ちゃんが死なんでよかった=自分らが生まれてよかったと言えるひなたと桃太郎は、やはり素直で良い子たちだなあ。るいとジョーが育ててきた、ひなたの道の子供たち。

桃太郎が「すごいな、お父ちゃん」と感心するのも、関西一のトランペッターだった過去の栄光ではなく、「そんな過去があったやなんて全く分からへんかった」=死のうと思ったほどの挫折を子供たちに全く見せなかった歳月に対して。
そこへ素直に思い至れるひなたと桃太郎が、るいの「なってあげて、この子の大好きなお父さんに」を忠実に守り続けてきたジョーの静かな闘い30年を、そっと肯定してくれたんですよ…。

再び戻ってくる「手羽やけど」「上等や」の穏やかな日常。でもその現在は、過去と決別したものでなく過去と地続きのものだと、もう大月家の子供たちも分かっているんですよね。

そんな大月家の前に、いよいよ過去から算太がやって来る。


#094 4月3日(木)


・濱田岳氏の濱田岳力(りょく)を存分に味わい尽くすの回。

・「るい」の名を聞いて咄嗟に逃げ出した1984年夏から、10年近くかけて戻ってきた算太。るいが京都で小さな回転焼き屋をやっていると知った時点でも薄々予想はしていたろうけど、それでも実際に大月家に上がって家族構成を見て、ひなたは「おばあちゃん」を知らないのだとはっきり分かったとき、その安子の不在に何を思ったんだろうか。

算太は当時ロバートの存在を知らなかったし、まして自分が逃げた後、安子までも雉真からいなくなってしまったことなど、この数十年知る由もない。
それでも、るいが岡山とは縁が切れていると固い顔で話し、そして安子が自分の後を追って大阪へ探しに行った(そして恐らく雉真とはそれっきり)という話を聞いたとき、自分の失踪が少なからず安子と るいの離別に関わったのだろうことを改めて理解したはずで。
ようやくここまで来てもなお、真正面から るいにあの日のことを問われれば「よう覚えとらん」とはぐらかしてしまう算太の弱さが、とても藤本脚本の登場人物らしい。

・それでも、あんこのおまじないが聞こえてくれば寝床から出て作業場を覗くほどに橘家の記憶は恋しく、幼い安子の幻を見れば踊りだすほどに妹は愛おしく、長く音楽に蓋をしていたジョーに思わずピアノを弾かせるほどにそのダンスは本物なのが、算太という人なんですよねえ…。
ずっと逃げ続けていた男が、かつて自ら捨てた実家も、ぶち壊しにしてしまった妹との夢も、二度と手にできぬ美しい幻として、死ぬ前にやっと見られるのは容赦なくも温かいし、またそんな男であっても、二代目モモケンやジョーに宝物のようなきっかけを与える存在になり得るのだという藤本脚本の厳しい優しさが、たまらなく好きなのです。

・るいが作った回転焼きの味に算太が感慨深げにつぶやく「たちばなのあんこじゃ」。
後に、”たちばな”のあんこを炊いていた本人であるアニー安子が大月の回転焼きを食べたとき、あんこの味だけではまだ100%の確信にまで至らず、ひなたから「あんこのおまじない」を聞いてとうとう答え合わせへ達したのを考えると、るいが作るあんこは文字通り「たちばな」そのものでなく、やはり赤螺母子が言ったように大きい括りで「懐かしい味」の範疇だったのではと思うんですよね。味が絶品なのは間違いないとしても。
だからこそ余計に、死ぬ前に病院を抜け出してまでやって来て、これが安子の娘るいが炊いたあんこだと分かった上で食べたとき、そこに二度と戻れない故郷の味をイマジナリーで重ね断言した老算太の心境に、切実なものを感じる。

・算太の帰りたかった”故郷”が、あの橘家でラジオを囲む賑やかな団らんだったとすれば、それは戦争から戻ってきた時点で決して取り返せないものになっていたわけで。
算太が「50年近う住所不定」で逃げ続けていたのは、故郷と妹と橘家の長男という立場というよりも、戻るべき居場所は半世紀前もうとっくにこの世には存在しなくなっていた過酷な現実そのものだったのかもしれない。

・ケチ兵衛にそっくりなケチエモンの登場で算太の古い記憶が開いた途端、あかね通り商店街と朝丘町商店街が重なり、現在と過去、今ここにある日常とこの世にもはや存在しない場所との境目が曖昧になる。
この「夢ともなく現ともなく 空々寂々として」(※ちりとてちん地獄八景亡者戯)な、あわいにこそ宿る奇跡がやはり藤本脚本の真骨頂だなあと思うし、2周目だと、この算太の幸せなラストダンスを描いた虚実皮膜の数分が、岡山帰郷編のあの8月15日へ向けて静かな助走だったことに気づくのです。

・さりげないところですが、福引で3等を当てて喜ぶ女の子と母親に、横のお惣菜屋さんと客が、よかったねーとニコニコ拍手している様子に、ひなた小学生編で るいが福引の当たりを引いたときも、このお惣菜屋さんが酒屋のおっちゃんと一緒に祝福してくれていたのを思い出す。もじりD演出らしいモブの演出が、算太のダンスに手拍子してくれる温かな商店街の雰囲気をあらかじめ作り上げているんですよね。ぽーんと虚実のあわいに跳ぶ藤本脚本を支える、細やかさ。

・突然の”親戚”登場に大はしゃぎする ひなたが微笑ましくも、今さらなお年玉話に紛れて「親戚がいいひんて聞いてた」とさりげなく言うのが、何とも。
小学生編で話していたように、自分の父親と家族が「変わってる」ことに自覚ある子供だった ひなたにとって、両親に「親戚はいない」と言われれば、そこはもうそれ以上は踏み込めないものが子供心にあったんだろうなあ。
基本は明るく大雑把でいながら、意外と繊細な気遣いもある ひなたらしさ。

「一宿一飯の恩義」を言う算太に「親戚やろ」と返す ひなたの言い方が、単なる屈託なさというよりも、その「親戚」という言葉をようやく初めて自分事として使える喜びにも溢れてるんですよね。福引の代理をねだるのも、初めてできた大伯父さんという存在への親しみを込めた甘えで。
そんな ひなたの明るさに算太が以前にも安子の面影を見たのは、第1回の頃に「この上なく幸せな女の子」だった安子が享受していたのと同じものを、るいとジョーが ひなたに注いできたからこそと思うと、改めてこの2人が京都に来てから粘り強く歩んできた「ひなたの道」に感慨深くなります。

算太の再訪からずっと防御本能のように強張っていた硬さから、算太のダンスを見てふと柔らかに緩む るいの表情。
日の当たる大通りで踊った算太のラストダンスが、次のサニーサイドへ るいたちを導いていく。
 



#095 4月4日(金)


・算太の弔いをモモケン二代目が「静かに」執り行ってくれたという一文に、様々なドラマが詰まっているなあ。
昨日の回で判明した算太の生年が大正9年ということは、大正4年生まれだった初代モモケンの5歳下。算太が二代目モモケンをだんごちゃん呼ばわりできたのも、そして父と疎遠な二代目が算太に気を許し甘えていたのも、何とも納得で。
きっと、ひなたから親類として算太の死を知らされたモモケンが、弔いをさせてほしいと誠実に申し出たのだろうことが、語られずとも伝わってくる。

・算太がクリスマスプレゼントとして残した2冊の通帳。古いほうに刻まれた日付と金額にどんな意味があるのかまだ手探りのるいに、安子編を見てきた視聴者としてはもどかしくも、いよいよ近づいてきたと胸が熱い。

母と一緒にあんこづくりをしたこと、母と算太おじさんが毎日外へおはぎ売りに行っていたことは覚えていても、それが何のためかまでは認識していなかったのが、賢くともまだ未就学児だった るいのまだらな記憶なんですよねえ…。
あの日通帳を持った算太が銀行へ向かったことも、安子が必死で おはぎを売ったのは店の再建のためだったことも知らなかった るいにとっては、母が約束を破り入学式の日に帰ってこなかった寂しさ、自分の傷と雪衣さんの言葉、自分の目で見た”ロバートさんに求婚される母”の姿だけが全てで。

ここから、誰もが不完全な人間の数だけ、各々が見て感じたままに違う事実と記憶があると描きつつも、るいが自分自身の中で先へ進むきっかけを得られる岡山帰郷編の色合いが、「それでも人生は続いていく」の塗り重ねのようで、とても好きなのです。

・そして、ジョーさんが算太を呼ぶ名が「るいの伯父さん」から「算太伯父さん」へと変わるグラデーションの優しさに、この人だから今やっと岡山へ心が向きつつある るいの背中を押せたのだろうと、大月夫妻の現在地に改めてじんわり来る。

・雉真の立派なお屋敷の前で桃太郎に答える るいの「そうや」四段活用、深津さんのコメディエンヌ演技の本領だなあ。
最初は、決然と捨ててきたはずの過去を前にして重たく頷いていたのが、だんだん桃太郎の興奮をさらりと受け流す軽やかさへ変わり、「はよ言うてえな!」「聞かへんさかい」に着地する振り幅が、微笑ましい。
このトーンが、お久しぶり勇ちゃんの”らしい”登場へスムーズに繋がる心地よさ。

・勇ちゃんがおじさんになっても相変わらずの野球バカで、でもそのおかげで、何十年も縁を切っていた姪っ子の緊張した帰郷でも、お互い妙に気まずくならずスッと雉真家へ入れたあたり、可笑しくもちょっと泣けてしまう。『カムカム』は、「人はそう簡単には変わらない」「人の同じ特質が欠点にもなるし良い作用も起こし得る」が安子編からずっと一貫している。

・それにしても、本放送のときも散々言ったけど、再登場の勇おじさんと雪衣さんのキャスティングを考えた人にはほんと拍手喝采したい。
特に目黒祐樹さんの勇おじさん、登場の第一声から、「るいか?」の「か」ハスキー音程がもう虹郎勇ちゃんそのままで、再放送でも改めて感動してしまうんですよ…。

そして、三世代で唯一同じ俳優が演じた算太が去り、勇も雪衣もあえて年を取った(演じる俳優が変わった)姿で再登場したことで、安子が去った「あの日」がもう当事者たちにとっても記憶や認識のバラバラな遠い過去になった歳月の厚みを感じさせ、また、この後再登場する”あの人”が昔と同じ若い姿である切なさへの、下地となっていることを思うのです。

伯父さんと伯母さんと対面し、ひなたと桃太郎の母親から徐々に雉真の姪っ子の顔に変わっていき、「お母さんは…?」と呟いたときにはもう、幼い心で傷つき安子を拒絶した6歳の るいの顔になっている深津さんの演技に震える。
 



#096 4月7日(月)


・るいの横にいるのがジョーさんで良かった、と改めて染み透るように思う岡山帰郷編。
ジョーにとって岡山は、定一さんの店という温かな”故郷”があった場所以上に、戦災孤児だった頃の記憶と結びつく場所、そして記憶の欠落を突きつけられる場所でもあるはずで。それでも、るいの心にけりをつけるため里帰りしようと背中を押したのは限りない愛情だし、その背中を押した責任を果たそうと るいにそっと寄り添い続けるジョーの佇まいが、とても優しい。

るいの父親だけでなく「終戦の年に亡うなった人みんなの五十回忌」と言う勇伯父さんに、静かに頷くジョー。そんなジョーが覚えていない実の家族もまた、その「みんな」に含まれているんですよねえ…。

るいとジョー、寂しい子供たちが懸命に歩んだ「ひなたの道」が合流してやがて家族になり、そしてここまでたどり着けた50年。
算太の再訪を「最後に少しだけ欲しかったんと違うかな、家族と過ごす時間が」と言い表せるジョーが、今は家族として るいの傍にいる。

・ひたすら たちばなを再建しようと必死だった安子の姿を述懐する雪衣。安子は噂されるような薄情な母親ではないと断言する健一。なぜ安子がるいを置いて出ていかねばならなかったか、それぞれが見たもの聞いたものは全て断片的だし、るいの幼い記憶とのズレはなかなか埋められるものではない。
それでも、安子と稔が確かに幸せな恋人だったこと、安子がるいを愛し、たちばなを愛していた事実を、るいが心の内側へ静かに収納していく様子だけでも救われるものがあるのです。

「お砂糖入れる?」「ありがとう」の小さなやり取りに、無意識のうちに安子の存在を受容しつつある るいの変化が現れている。


・同じ藤本脚本の『ちりとてちん』で特に好きなのは、小草若が父へのコンプレックスとわだかまりを抱える始まりになってしまった弟子入り時の誤解について、それを父本人や、またその真相を知る他人から直接聞いて解決するのではなく、むしろ父の死で永遠にその真相を聞けないまま(恐らく誤解したまま)になってしまっても、小草若本人が遠回りの末に自分自身でそのコンプレックスを越える答えを見つけた、終盤の流れでして。
傷を負っても直接癒えなくても、人生は次に進めると描くのが藤本脚本。

『カムカム』も、るいが少しずつ過去の記憶のパズルを埋めていくこの岡山帰郷編が最終的に、きれいさっぱり誤解が解けて許せたからではなく、むしろ分からないことが多い状態でも、るい自身が思いを解き自分の中で腹に落ちるものがあったから前に進む決意を得られる流れが、とても藤本脚本らしい。
 

・そして今日の回は、さりげなく(仮)たちばなの包み紙が巻かれた おはぎが出てきた回でもある。
本放送のときは、安子が実は戻ってきている説、たちばなの職人の誰かが復員していて店を建てた説、きぬちゃん家が商い替えした説、あのおはぎ少年説、等々、TLが沸騰したなあと懐かしい。

このおはぎのワンカットに込められた意味が最終週で、るいに愛情を注ぎつつも「店はただの形」だと送り出してくれた竹村夫妻、そして るいジョー夫婦の幸せな最終地点へと繋がり、『カムカム』テーマのひとつ【血の繋がりがなくても次の世代へ繋げ伝えられるものがある】を体現していくんですよね…と、2周目だともう今から胸が熱い。


・ひなたと桃太郎が両親を大阪出身だと思っていたこと、また今日の回でジョーが勇伯父さんにクリーニング店での出会いを話しても、ひなたと桃太郎が特に「何それ?知らへん」と食いつく様子はなかったのを思うと、ひなたも桃太郎も竹村クリーニング店の存在だけはぼんやり認識してたんだろうか。最終週で明かされるように、竹村夫妻と年賀状のやり取りがあったわけなので。

それでも、「親戚はいない」という両親の言葉をそのまま信じて踏み込まなかった(踏み込めなかった)ひなたが、初めての親戚の家で祖父母世代の写真にちょっと興奮ぎみなのが微笑ましいし、そんな中でも、「お母ちゃんのお母さん」の話に何かを察し始め、恐る恐る慎重に探っていく繊細な表情が、とても ひなたらしい。

そして明日は、いよいよあの回。



#097 4月8日(火)


・本放送時の新鮮な感想を再掲
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・”平川先生”に出会う ひなた。電源と繋がっていないラジオが突然受信する50年前の放送。”お父さん”に会う るい。
この一見突飛な場面が現実とシームレスな美しい幻として違和感なく成立しているのは、ここまで96回かけて脚本と演技演出が虚実のあわいを緻密に組み立ててきた『カムカム』ゆえだと、2周目でも改めて唸る。

・「どこの国とも自由に行き来できる。どこの国の音楽でも自由に聴ける。自由に演奏できる」
かつて安子に「僕らの子供にゃあ、そんな世界を生きてほしい」と未来への願いとして語っていた稔が、もうとっくに自分の歳を追い越した娘に「そんな世界をお前は生きとるよ」と現在形で語りかけるんですよねえ…。

「お父さんですか?」と聞く るいの震える声が、顔が、本当に6歳のようなあどけなさで。自分の名前に込められた答えが欠落していたピースとなり、あの日以来喪失を抱え続けた るいの幼い心に埋まっていく。
虚構でしか存在し得ない、物語だからこそ描ける救いが、ああ藤本脚本だなあと。

そして、この現在形で語る稔さんの幻に、夫の夢と知識が海の藻屑と消えた理不尽を「Why?」と泣きながら怒ったあのときの安子の心もまた昇華されるような気持ちになるのです。

・ジョーが るいの心を「会いたいんやなあ、お母さんに」とふんわり言い当て、るいに「人の話ゅう聞きょりました!?」と否定されたのが1962年の第48回。それから32年かかって、ようやく るいが自らの言葉で「お母さんを捜しにアメリカに行きたい」とジョーに言えたことの感慨ですよ…。
その間ずっと、繋がっている向こうのアメリカを2人で思い浮かべた海辺でも、娘が見る地球儀でアメリカを指し「遠いねえ」としみじみ言ったときも、るいの心に踏み込まぬまま寄り添い続けたジョーという人。
ジョーがいたから るいが辿り着けた場所なのだと、つくづく。


・それにしても、突然現れた見知らぬ男性(平川先生)が外から呼びかけても普通に返事して会話しちゃう ひなたは、さすが映画村バイト初日から物怖じせずに馴染めていた子だなあ。「細かいことは置いときましょう」と言われれば即「分かりました」と納得し、狸囃子の歌にもすぐ応じる ひなたのおおらかさが、とてもらしくて微笑ましい。この辺、やはり川栄さんが相手のセリフを受ける絶妙な間が、ひなたという子の輪郭を作っている。

虚実を行き来する今日の回が絶妙なバランスで成立し得たのは、ここまでの物語としての蓄積はもちろん、ひなたのこの素直な適応能力こそが、交錯するリアリティラインの結び目にもなっているからなんですよね。
るいとジョーが慈しみ育てたそんな ひなたの特質が、正午のサイレンが鳴る間だけの奇跡を引き寄せ、平川先生の願いも半世紀の時を超えて受信し得た。
サニーサイドの「祈り」がひとつの実を結んだ、結晶のような回だなあ。
ここから、いよいよ最終章へ入っていく。



・本放送のとき(2022年3月18日)には、ウクライナ侵攻が始まったばかりの情勢もあり、余計にしみた稔さんの言葉。あれから3年たち、再放送で聞くこの言葉に込められた願いがさらに重たく響くようになっている2025年の現在地を、つくづく考えずにはいられない。
それでも、この言葉を作品の貫く柱に据えた『カムカム』が作中2025年の最終回で至る地点は、現実の2025年と異なるからこそ、物語がなぜ人には必要なのかという意義そのものを体現しているとも思うのです。苦々しい葛藤を抱えて敗戦後を生きる定一さんが、インテリの言うことだと苦笑いしつつも、稔が言い残した眩しい理想に救われもしたように。『カムカム』は、藤本さんをはじめ創り手たちのそんな物語観が一致している作品だなあと思うし、そこに私は強く惹かれる。

 

 

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