カムカム再放送第19週
2025/04/01(Tue)23:56

カムカムエヴリバディ 第19週「1992-1993」


#088 3月26日(水)

・虚無蔵さんの名言「日々鍛錬し、いつ来るとも分からぬ機会に備えよ」初登場回。
今まで、毎朝のあずき炊きやラジオ講座、ひなたの瓶集め、毎日焼く回転焼きなどのエピソード積み重ねで、ずっと言わずとも語られ伝わっていた『カムカム』のテーマが、いよいよはっきり言語化されたことに、2周目だと一層感慨深い。

・すみれと凛太郎の交際きっかけは凛太郎の『ぼたん』シリーズのゲスト出演だった、つまり長寿シリーズ『破天荒将軍』の主役俳優ですら現代劇にゲストで出ているのを思うと、時代劇しか出ないことが自分の「志」だと言い張る五十嵐の頑なさが、余計に際立つなあ。

9年前はお情けのゲスト出演がやっとで演技も空回りしていた すみれさんが、破天荒将軍をゲストで呼べるほどの安定シリーズ持ちな主役級俳優へ飛躍したのといい、左近役を見事勝ち取った蘭丸が順調に年末大型時代劇の主役に確定したのといい、9年前と同じ場所で足踏みしている五十嵐を打ちのめすには十分すぎる現実なんだろうけど。

それでも、40年斬られ続けてきた事実を矜持とする虚無さんに、よりによって「こんな屈辱」と言ってしまうこの時点の五十嵐は、相当周りが見えなくなってしまってる。
『妖術七変化』オーディションで、本来なら書類落ちレベルだった、実力以上の殺陣ができたのは虚無さんに引っ張られたおかげだと轟監督に評価されてたのも、すっかり忘れるほど焦っている様子に、胸が痛い。

・五十嵐自身は、自分のその焦りと拘りを「俺は侍でいたい」と言い換えているけど、役がもらえない日々を「屈辱」だと言い、扮装バイトにも身が入らない五十嵐より、映画村と大部屋のためアイデアを一生懸命出し、コツコツ貯金もしている ひなたのほうが、今はよっぽど「侍」に近いんじゃなかろうか。

五十嵐と ひなたのすれ違いは、人生設計や価値観のズレという以上に、互いの「侍」定義のすれ違いでもあったのだと改めて思う。
そしてそれは、時代劇愛で繋がった2人だからこそ、決定的な齟齬で。

・空回ってる五十嵐を淡々と受け止めて諭す虚無さんの強さは、あのオーディションでモモケンとの対峙を経て、真の意味で自分の存在価値を腹落ちできたゆえの強さでもあるんでしょうね。
斬られ続けてきた40年を誇れるからこそ言える、「傘張り浪人とて刀を携えておる限りは侍だ」の説得力。

最初に目指したゴールと違ったり、明るいライトを浴びる場所でないとしても、必死でもがいて辿りついた場所であれば、そこまでの道のりも含めて「ひなたの道」だ、というのはどの作品にも一貫して感じる藤本脚本のテーゼですが、それを『カムカム』で若者たちに伝える役を託されているのは、暗闇の似合う虚無さんというのが、とても好きなのです。


・この回は小夜ちゃんと吉之丞が偶然の再会という、なかなかの転換点だったことが2周目だと分かりますが、小夜ちゃんが遊びに来るのは毎度のこととはいえ、ここで吉之丞が珍しく大月家へ来ていたのがテレビ修理のためだったのを思うと、星稜戦と松井が見たくて騒いでいた桃太郎自身が、小夜ちゃんと吉之丞の再会を導いてしまってたことにも気づく。敬遠どころかサヨナラホームラン級のすっぽ抜けだ。も、桃ちゃん…どんまい…。

・そして今日も、チャンバラの一件であちゃーとなるジョー、時空を超えて再びおわびの回転焼きを差し出す るいの、大月夫婦がかわいい。

 



#089 3月27日(木)


・改めて三代目の時代だと思う、ひなたと五十嵐の別れ。
この後を知っている2周目だと、やはりこの2人にとっては必然の結末だったように思うのです。

・『カムカム』を貫く「On the Sunny side of the Street」の音色。安子と稔にとっては切実な未来への希望であり、るいにとってはジョーを暗闇から引き上げて文字どおり命を救った「ひなたの道」。
そんな前世代・前々世代の願いを具現化したように生まれ育ったサニーサイドの申し子ひなたが、いま影の只中にいる五十嵐にとっては拒絶せざるを得ないほど眩しい、という皮肉をこの底抜けに明るかった三代目編で描くんですよね…。
「暗闇でしか見えぬものがある」が、別の意味で ひなたに突き刺さってくる。

・アラカンを超えると息巻き、大量生産型テレビ時代劇の「毎度同じ」を五十嵐が批判した9年前はまだ、鼻っ柱の強い若造が何か熱いこと言うとるぞ、と大人たちも微笑ましく見られたけど、破天荒将軍に悪酔いで絡んだ今回はさすがに、八つ当たりで言ってはいけないことを言ってしまった、と五十嵐本人もよく分かっているはずで。

この状態の五十嵐にとって、かつて自分が否定した「毎度同じ」を全力で肯定し返した9年前と変わらず、同じ目で自分の「アラカンの50倍」をも真っ直ぐ信じてくれる ひなたは、確かに眩しすぎるなあ。

・さらっと話される五十嵐の背景。実家が小さいながらも会社経営で、副社長をしてる=しっかり者の兄貴もいると明かされるだけで、俳優の夢を反対されて飛び出すしかなかった過去も、だから余計に自分が選んだ道で頑なになる素地も、一旦懐いた大月家の団らんにはスッと混じれる素直さも、どこか人のせいにしたがる甘ちゃんな気質も、納得いきすぎるんですよ。

・役者をやめて実家に帰る=安定した収入を得た上で ひなたと結婚する提案は、五十嵐なりに「おひなを泣かすな」を考えたものだし、ひなたの明るくバカな「夢」を背負いきれない今の自分ではひなたを傷つけるだけ、と別れを決めるのも、それはそれで五十嵐なりの「侍」を通した誠実さではあるんですよね。
やはりこの2人のズレは、互いが思う「侍」定義の解釈不一致だったのだとつくづく。

そして2周目だと、「もう傷つけたくない」と別れを決めるこの五十嵐は、心の内を推し量れず傷つけてしまった娘の目の前から自分が消えることだけが、「るいにしてやれるたった一つの詫び方で、そして祈り」だったと告白したアニー安子とも重なっていることに気づくのです。

いっちゃんの「人を好きになるやなんて、アホやからやと思います」「傷ついたり傷つけられたりしながら、それでも、人を好きになるんやから」は、今日の回の恋人たちだけでなく、『カムカム』で描かれた様々な形の愛情にあまねく掛けられた言葉なんでしょうね…。
そんな傷ついたり傷つけられたりの必然を自覚しながら、それでも人間同士が関わっていくことはおかしくて愛おしい、と描くのも藤本脚本作品の命題。


・しかし、愛する女を養えるのかと一喝されるような若造でも出征前という特殊な状況ゆえスピード結婚した稔さん、全て失っても命さえあれば精神で るいに引き止められ結婚したジョーを思い返すと、夢を諦めても大事なのはお前だと五十嵐に求婚されても「私を言い訳に使わんといて」と断固拒絶するひなたに、るいの「私の幸せを勝手に決めつけんといて」を経由して行き着いた平成を感じる。

ひなた編は実はまだ中盤。サニーサイドの笑顔で言う「あなたの夢は私の夢」は、やはり ひなたにとっていつかは通り過ぎる地点だったことを思う2周目。
 


#090 3月27日(木)


・全くカラーの違う ひなた編が、るい編の続きだったと改めて思い返す回。
親世代の通ってきた道が、夢破れた若者たちの行く道をゆったり照らす。

・この回で特に好きなのは、ひなたが自分の名前の由来を「お父ちゃんが縁側でひなたぼっこしながら思いついた名前」とずっと信じていたことなのです。
この一言だけで、トミーの新譜を買っても聞けないぐらい傷がまだまだ癒えてない、それでも葛藤を決して表に出さず穏やかな父親の役目を果たしてきたジョーが、るいとともに密かに闘い続けてきた27年間が、一気に押し寄せてくる。
いかにも ひなたらしいすっとぼけた言葉に、ふふっと笑いながらも、るいとジョーの人生を見てきたこちら側は堪らなくなりますね…。

暗闇にいる男が眩しいと思うほど「ひなた」にいる子の明るさは、その子の誕生を光だと喜び、決して影が差さないよう穏やかな日々を守り慈しんできたジョーと るいの見えない闘いあってのもの。「一流のスターは一流の斬られ役があってこそ」が、大月家の歴史に重なる。

また、掴みかけた栄光も全て失った痛みも玄関に置いて、まっさらな新天地での生活を「ひなたの道」にしてきた るいジョーと、家族ぐるみで付き合いながら、子供らの前では過去の話を一切出してこなかったベリー師匠の友情にも泣けるのです。もちろん、自らの青春に潔くつけた区切りではあるとしても。

・「娘を泣かせやがって」「一発殴らせろ」とジョーに言われるのを覚悟していたあたり、五十嵐の実家は昭和的カラーの強い家庭なのでは…と想像できる。だとしたら、恋人が自分のためしっかり貯金までしている状態は、自分の不甲斐なさが際立ち、余計に辛かっただろうと。
安子編の稔や勇の時代からずっと、いわゆる”男らしさ”の型に沿って何かしようとすると挫折する法則が、さりげなく貫かれている『カムカム』。

それでも、空回りの末に夢を諦めて去る五十嵐へ、今までの歳月は無駄ではないと師匠の虚無蔵さんが餞をくれるのが、物語としてとても優しい。
そういえば虚無蔵さんの「お前が鍛錬し培い身につけたものは、お前のもの。決して奪われることのないもの」は、ロバートが安子に英語学習を続けるよう言った言葉にも通じるんだなあ。
そして実際、五十嵐は「思いも寄らない場所」まで行く。

・大月夫妻が五十嵐に優しかったのは、娘ひなたの友達/恋人だからというだけでなく、自分たちがかつて同じように夢を追いかける若者だった頃、定一さんや木暮マスターや竹村夫妻にしてもらったことを、次の世代に渡しているからなんですよね。別れた恋人の父親としてでなく、同じく夢破れた人生の先輩として、五十嵐への餞別を贈るジョーさんの語り口に、大阪編の人々の顔が見える。

暗闇から るいに引き止められて「かすかな光が見えた」、そうしたら産まれてきてくれたのが「眩しい光の塊みたいな ひなた」だったと、かつての傷と我が子の誕生を言い表す言葉の、何と美しいことか。
そんな大切な存在として ひなたのことを語りながら、それでも ひなたと別れる文ちゃんに対し、彼もまた傷ついている若者なのだと理解した上で心からのエールを贈れるジョー自身が、もう光なんだよなあ。

母と別れてから、るいが ひなたきっかけでラジオ英語講座を穏やかに聴けるようになるまでが25年。 もしかしたらジョーも、目の前の若者のため、30年弱ぶりにようやく自分の過去を話せた、でも穏やかに話せたことに案外、自分自身がびっくりしてたんじゃなかろうか。それはジョーが今、ひなたの道にいる何よりの証拠で。
ピアノの音が響くまで、あともう少し。

・るいもジョーも ひなたと五十嵐を励ますけど、よりを戻させようとはしないのが、この回は何度見てもしみじみと好き。恋がそのまま人生の新しい扉だった安子の時代、少々特殊な事情とはいえ恋の成就がそのまま人生の転換点だったるいの時代を経て、恋人との夢が終わってもそれは人生の一部でしかなく、自ら抜いた刀で思い出も悲しみもばっさり斬り捨て、人生は続いていくのが、三世代目ひなたの時代。
「ひなたの道を歩けば、きっと人生は輝くよ」と若者たちに温かく言い切れる、そんな時代を るいとジョーは生きている。


・それにしてもこの回、るいジョーの若い頃の回想がカットバックされると、すっかりお父ちゃんお母ちゃんになっている今の大月夫妻に積み重なった歳月を感じ、大河ドラマ10月頃のような感慨がわく。
サニーサイドを歌っているときは大阪編のような儚さがふわっと滲み出つつ、ひなたと向き合った途端、ふふっと笑っていつものお茶目な るいお母ちゃんに戻る深津さんの振り幅よ…。


『おむすび』で今日かかっていたジャズ曲、前にナベベと聖人さんがジャズバーで聞いていた曲かと思うんですが、トミーとジョーが共鳴セッションしたあの曲に少し似てるんですよね。(カムカム好きの贔屓目ですが、オマージュならとても嬉しい)
ジョーがトミーを「友達」と他人に紹介し、今や作中世界ではトミーが音楽に疎い五十嵐でさえ知ってる存在になっている、と判明する今日の回と同日に、『おむすび』でジャズがかかったのは素敵な偶然。おむすび時空でもトミー北沢はレジェンドであれ。

そして、カムカム最終回=作中では安子100歳の誕生日(2025年3月22日)の翌週、つまり今週に大月夫妻が見ていた朝ドラは『おむすび』だったのかなと思うと、最終回でもジャズが流れてジョーさん嬉しかったろうなあと、ほくほくするのです。



#091 3月31日(月)


・『カムカム』は全112回しかない短さなので、90回を過ぎると、いよいよ終盤最後のカーブに近づいてきた感。(今のペースで順調にいくと、ちょうど4月29日昭和の日に最終回というタイミングなのも、なかなか味わい深い)

・今回の再放送編成では週末を挟んだからちょうどいい切り替えになってますけど、本放送のときは、第90回で ひなたが文字取り失恋を斬り捨て、そして翌日に今日の回だったんですよね。
それでも、ひなたがあまり失恋を引きずっていない様子で違和感ないのは、お互いが選んだならそれが「ひなたの道」として一区切りつけたからだろうと思うと、つくづく大月夫妻が若者2人にかけた言葉の素晴らしさですよ…。
文ちゃんの夢でなく自分の夢を探すため、サクサク進んでいく『カムカム』百年ペース。

・ひなたの3か月英会話教室通い。ネイティブとの会話であわあわ緊張しているうちに、思ったほど効果を実感できないまま終わってしまう…というのが、とてもリアル。
でも、子供のときは1週間で挫折した英語学習を今回はちゃんと3か月は続けられたし、耳が英語に慣れたのか、簡単なリスニング力はついているのは、ひなた的にはすごい進歩なのでは。単語の言い換えもちゃんと質問できているし。

そしてこの英語教室で、何気なく出てくる例文「I write a letter…」。
かつて、この単語を含む簡単な英文が、どんなふうに一人の大学生と一人の女性を結びつけ、それがどう自分に繋がっているのか、ひなたは何も知らないし、演出上も特に強調されない。ただあの回を覚えている視聴者側だけが、作中で半世紀ぶりに出てきたこの単語に、ああ…と懐かしく思い出すこのさりげなさが、余計に沁みる。

・いくら今は給料貰ってる社会人とはいえ、空き瓶1,000円分の重みを知っている ひなたにとって、貯金を崩し大金を払うのはなかなかの大博打だったろうなあ。それでも身につかないものは身につかない、現実の厳しさ。
そんなトホホな失敗談を「妄想は打ち砕かれました」と自分でツッコミながら書いているのも、また ひなた先生の明るさですよ。
(このあたりは、数十年後から若い自分にツッコミ入れ続けた『ちりとてちん』の若狭ナレにとてもよく似ている)

・扮装なしでも「おばけ」として全力で脅かし、ギャーと逃げる客に「ありがとうございました」と律儀に言う虚無蔵さん、本日も最高である。
サイン会の前座、しかも子供客の前でも全力で斬られ演技をしていたあの頃からずっと、目の前の仕事に全力で取り組むことで「日々鍛錬」を実践しているのだと、ひなたに示し続けてますね。
…とはいえ、この回で ひなたに謎で謎を重ね返したあたり、虚無蔵さんの「時代劇を救ってほしい」は、実はそこまで重い意味でも深い策でもなく、面白い子を見つけてスカウトしたノリと勢いで言っちゃった説をやはり私は推したい。怖い顔でお茶目な虚無蔵さん説。

・しかし、虚無蔵さんの「日々鍛錬し、いつ来るとも分からぬ機会に備えよ」が、ひなたにとってこの後も人生を導く重要な言葉なのは、間違いなく。

そしてこの流れだと、第90回の「お前が鍛錬し培い身につけたものはお前のもの。決して奪われることのないもの」も、物語として ひなただけでなく、毎朝ラジオを聞いていた るいの17年間にも掛かっていたんだなあと気づく。

あんこを炊いて店をやれば、いつか母の気持ちが分かるかもしれないと言っていた るいにとって、母と分かちがたく結びついているラジオ英語講座を毎朝聞くことは、過去の蟠りを解し客観化していく作業でもあったはずで。
るいが「身につけた」「奪われることのないもの」は、英語力だけではない。

岡山帰郷回まで、あと少し。


るいが値切ったテレビを吉之丞が設置に来て、小夜ちゃんに励まされた桃太郎が「1月3日は決意記念日!」と浮かれてるのは、1993年の正月。てことは、『ちりとてちん』時空だと、喜代美が草若師匠への弟子入りを許された頃。

つまり、ひなたが4月から3か月間あわあわしながら英語教室に通い、お化け屋敷受付で英語の身につかなさを痛感する8月までは、ちょうど喜代美こと若狭が4月の初高座で大失敗し、糸子お母ちゃんがお百度参りに励み、そして8月5日に二度目の高座に上がるまでの期間と重なるんだなあ。
どこかやはりシンクロしている藤本脚本の主人公2人。
 



#092 3月31日(月)


・大月姉弟のあわれ合戦ならぬみじめ合戦…と思っていたら、ラストのジョーに るいと同じ顔でハッと息を呑んだまま15分が終わる回。本放送のときはこれで週またぎだったから、何て殺生な…と土日を過ごしたんだよなあ。明日すぐ続きが見られるのはありがたい。息ができる。

・『ちりとてちん』のあわれ合戦そのまんまな、ひなたと桃太郎のどっちが惨めか姉弟げんか。どうしようもなくアホだけど、だからこそこの言い合い自体が、ただ一人で抱え込んでたら余計みじめになることを言語化し、ポンポンぶつけ合っているうち、悩み自体が何やアホらしなってくるという、ひとつの客観化過程だなあとも思うのです。

「人生は近くから見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇」というひとつの真実は、逆に言えば、どんな喜劇だって当人にすれば大真面目に人生の終わりとさえ思う悲劇だし、それを無理やりでも喜劇として相対化し乗り越えることと、その絶望の深さを軽く見ることは決してイコールでないのだと、藤本脚本の真骨頂なこういう掛け合いを見るたびに思う。一生懸命なアホたちの一生懸命な苦い涙。

・視聴者も ひなたも吉之丞をわんぱく悪ガキ時代から見ているから、「問題は相手が吉之丞いうことや!」とツッコミ側に回れるものの、10歳下の桃ちゃんにしてみれば、高校生のうちからしっかり将来を見据え、ぎっくり腰がよく再発する親父さんに代わって家業を担い、古いテレビもすぐ直してくれる頼もしいお兄さんだったんですよねえ…。ケチのつけようがないから余計落ち込むはずだ。


・本放送の頃、桃太郎のこの行動に算太の”血筋”を理由づけする感想をちらほら見たけど、むしろ逆で、「失恋」「あかにしからの窃盗」という世代を超えて同じ(カムカムらしい寓話的な繰り返しの)シチュエーションだからこそ、算太と桃太郎が全く別個の人間だということが際立つんじゃなかろうか。

算太のラジオ窃盗は、幼い頃から妹の誕生を賭けにし、長じては借金で逃げ回り、やがて父親にも「どうしようもない悪たれ」として勘当され、そして一旦は店の再建を志すものの最終的には妹さえ裏切り逃げてしまう、算太という人物像を第1回から象徴してみせる事件であり、落語的などうしようもない”業”を抱えた算太の人生の中で一貫している行動のひとつ。

対して桃太郎は、小夜ちゃんへの恋心ゆえはあったにしても、周囲の愛情を素直に受け取ってすくすくと勉強も野球も頑張ってきた子だからこそ、この絶望をどう表現したらいいか分からず、分かりやすい不良行為を衝動的にやってしまったのが、あの行動なわけで。桃太郎は算太ではないから、その行動に今までとの一貫性はない。(だから ひなた含め周囲も動揺する)
その点で、『ちりとてちん』正平にすごく似ているんですよ。ずっと穏やかで真面目だったから、今さら荒れ方がよく分からず、とりあえず はみ出し者な小次郎おじちゃんの服を借りて着なければ「はみ出すこともできん」子の、取ってつけたような不器用なグレ方。

なので、桃太郎は算太とは当然ながら別人格の子として生きてきたからこそ、世代の繰り返しで同じシチュエーションが襲ってきたとき、(明日の回で描かれるように)桃太郎は踏み外しかけた道からちゃんと帰ってこられる。それは意図的に安子編と重ねられていた るい編で、るいが安子と別人格の子供だからこそ安子編のような悲劇を力強く回避できたのと同じだと思うのです。

何度か感想書いているように、『カムカム』の寓話的な三世代の繰り返し構造は、誰々の子だからこういう行動をするという”血筋”の縛りではなく、むしろリフレインの中でこそ際立つ三世代個々人の違いを強調するものだよなあと。そして、そこには一貫して、次の世代(時代)はどうかより良い人生であれという祈りが込められている。

・「ひなたの道」を願い育ててきた子供たちの惨め合戦を見つめる るいとジョーの、何とも言えない感情が溢れた顔。そして、ジョーがトランペットを構えたとき、その唐突さに訝しげな子供たちと、その意味を理解する るいとのギャップ。
ああ、いよいよ ひなた編がるい編と合流し始める…。

 

< 前の記事 ▼一覧 後の記事 >
Copyright(C) 2008 - 2026 baserCMS Users Community All rights Reserved. baserCMS : Based Website Development Project  CakePHP(tm) : Rapid Development Framework