熱談プレイバック 手塚治虫回 視聴。
そういう趣旨(題材は昭和の有名人)の企画だと知りつつも、いざ冒頭で、講談には左甚五郎や円山応挙など出てくる話がございまして…と入られると、そこに手塚先生が並べられる事実に改めて、おおう…となっている。没後35年。
内容自体は、さすがの語り芸と映像の組み合わせとが興味深く楽しめた30分でした。
とはいえ、同時に見ていて思ったのはまた別の話でして。
この講談で語られる中身、そりゃ30分に圧縮するためもありましょうが、ほぼ手塚ファンにはおなじみのエピ、とはいえ熱心な手塚ファンほどその”伝説”を冷静に解体・相対化して受け止めている一方、世間一般的には単純・形骸化した”伝説”のまま流布しているギャップが生じているエピソードが、かなり後者の形で含まれていたんですね。
『新寶島』における酒井七馬先生の存在をまるっと削ってしまっては作品の意義を語るとしても不公平だし、連続TVアニメ『鉄腕アトム』を可能にした制作体制も、ただ手塚ひとりのアイデアや奮闘というだけで語りきれるものでないことは、例えば最近出た りんたろう監督の自伝バンド・デシネ『1秒24コマのぼくの人生』からも明らか。『B・J』連載依頼のやり取りも実際の証言を意訳といっていいレベルで単純化したものになっていた。
しかし、これら全てが「アリ」かもと思わせられちゃうのが、まさに「講釈師見てきたような嘘を言い」も許される講談マジックだったのかなあと。
講談において血湧き肉躍る軍記物も赤穂義士の銘々伝も、それが”史実”に忠実かなんて気にするほうが野暮なように、手塚先生の人生を講談にするとすれば、マンガ文化史的な正確さはひとまず置いておいて、ひとりの天才が怒涛の活躍と挫折と復活を経て「神様」になっていく痛快無比な軌跡にまるっとまとめるのが講談らしいのかと、その気づき自体がちょっと興味深かったのです。
ちょうど先日『光る君へ』最終回を見終えたとき、個人的にはドラマとして楽しく1年見たものの、歴史上の紫式部や道長、まして今回ライバル側だった中関白家サイドのガチファンにはまた違う感情もあるんだろうなあ…とも思えて、例えばこれ自分にとっての手塚先生を同じくらい大胆アレンジしたドラマが作られたらどういう感情が沸き起こるだろうかと、ちょうど考えていたところでして。
なので今回の講談で、その良い予行演習ができたかもしれない。
来期朝ドラはやなせたかし先生モデルということで、いよいよ手塚先生が朝ドラにお出ましになる可能性大なので。
…というか、手塚先生に誘われ虫プロで制作した短編映画が代表作アンパンマンに繋がり、その恩を生涯忘れなかったやなせ先生をモデルにする朝ドラで、手塚先生が出なかったら嘘やろと思いますし、もしくはやなせ先生が書かれている「大恩人」のイメージを崩す人物描写で出されても戸惑いますけど、けれど、最近のモデルあり朝ドラはいい意味でも悪い意味でもアレンジが何でもありなので、そこは覚悟しています。
そんなわけで今日の手塚治虫講談は、いつも割り切っているつもりのフィクション/史実の線引きも、いざ自分のアイデンティティの本丸に及んだらどうなるのか、省みる機会になりました。
(正直、へたにインタビュー実話系の形を取っているがゆえに誤解を招くマンガ表現もそのまま拡大解釈され広がっている『創作秘話』よりも、こういう”講談”のほうが罪がないかもしれないなあ… その点では、恐らく名前変えた人物になるだろう来期の朝ドラも)

