・文芸テーマ大河としての光君。特に作中の『源氏物語』発表以降は、多様な受容の在り方と、それを許容する物語の豊かさを描いているのが面白く見ていたんですが、そういえば まひろが創作者個人として抱く、伝わる/伝わらないの喜び、哀しみ、もどかしさについては、意外とダイレクトに吐露されていなかったことに今更ながら気づきました。作家が主人公のドラマなのに。
なので今回、まひろが「たった一つの物語さえ書き手の思うことは伝わりにくい」と初めてそれらしいことを言ったのが、少し新鮮で、ハッとさせられ。道長の「お前の物語も人の一生は虚しいという物語ではなかったか?」と微妙に噛み合わない返しのおかしみも含めて。
・思い返すとまひろ、光る君のモデルは誰だの解釈も含め、自分が書いた物語をこう読んでほしい、こう読ませねばと限定し強く願うタイプの作家ではなかったですね。物語のタネ(の一部)は確かに「我が身に起きたこと全て」ですけど、一の経験と知識を百に膨らませて書いたそれを読み手がどう受容しようと、動じていない。
少なくともここまで、読者の”誤読”への嘆きや伝えることへの悪戦苦闘という、いかにも作家らしいエピは具体的には描かれていません。
女房たちや ききょうが光る君の振る舞いをあれこれ好き勝手批評するのを否定も肯定もせず黙って聞き、周囲の続き予測考察もさらりと受け流し、光る君の心情を読み取れなかった幼い彰子が読書を通じて自身の内側と対話し変化していく成長を、むしろ喜びとするのが、光君まひろのスタンス。
はっきりと「書き手の思うことが(そのまま)伝わった」手応えを読者本人と分かち合っていたのは、せいぜい一条天皇に対し、帝に起きたことを思って書くうち帝の哀しみを知ったのだと告白したときぐらいでしょうか。
・ここで思い出すのが、『光る君へ』制作陣のチーム感というか、人物像を共同で作り込んでいる意識の強さ。もちろん毎年の大河と同じく、脚本が芯で土台であることには変わりないのでしょうけど、大石さんのブログをはじめ俳優や制作陣インタビューなどで、たびたび「うちの○○(役名)」のように対等な共有意識の表現が飛び出すのが、例年に比べとても印象的なのです。
・読者側とのズレや葛藤、ギャップという創作者あるあるが まひろに描かれてこなかったのは、そもそも「書き手(に限らず言葉を発する者)の思うことは伝わりにくい(で当たり前じゃないか今更何言ってんだ)」との諦観と突き放しがまず彼女のベースにあったからなのでは。
自身が書いたものに対してすら自身の考えを絶対正解とはせず、むしろ読み手の多様な(時に書き手の想像さえ超えた)解釈、さらに読み手が物語を受容し起こる変化そのものを楽しむ、そんなさっぱりした まひろの創作観は、個人で創作を行う作家とはまた違い、別人の手を経なければ作品が完成しない脚本家ならではの「藤式部」造形なのかもしれないと、ふと感じました。
・たしか関連本のどれかでも、『源氏物語』は紫式部個人の手に依るだけでなく、膨大な登場人物たちを覚えるほど読み込んでいる優秀な読者コミュニティや、写本の過程で加わっていくものによっても、さらに厚みが増していったのではないかという話があった記憶。
光君中で具体的な描写はなかったですけど、現代の著作権概念とはまた違った創作環境だったろう平安中期を舞台にするとき、主人公の創作観が、この終盤に来て「書き手の思うことは伝わりにくい」を前提にしたものだとダイレクトに開陳されるのは、なかなか面白いなあと思った次第です。
・だから、道長が読む望月の歌も、皆がそれぞれ好き勝手に解釈するんですね。まひろの物語と同じく。
実資に促されあの唱和に加わる者たちにとっては道長の満ち足りた権勢を称える歌に、今宵ここに揃った三后を産み育てた倫子さまにとってはこのファミリーを夫と共に築き上げた満足に、盃を最初に渡された頼通にとってはその盃が回る満座からの権力移譲の承認に、しかし まひろにだけは誰も知らない あの秘密の夜に見た月が思い出され、そして同じ夜への追憶を込めた道長自身にとっては、もしかしたら、そこから登り詰めて満たした盃の向こう側に、欠けていく自身の終わりもふと見えているのでしょう。
唱和の中で浮かび上がる道長の華麗なる孤独は、それぞれ多彩な思いが円い座の中に満ちていることと表裏一体。
・思いと心は裏腹だし、悲しくても嬉しくても人は泣くし、人の道を説く学問を修めてようと人の道に外れることはある。光君がここまで積み上げてきた人間観が、一見投げやりな「たった一つの物語さえ書き手の思うことは伝わりにくい」に、実は豊かな含みを持たせている気がするのです。まひろが続けて語った、物語に込めた思いが予想外の、そして代を超えた先で花開くこともあるのだという希望も併せて。
・倫子さまが まひろに依頼した道長の一代記。これ倫子さまが 道長と藤式部の関係をどこまで知っている(感づいている)上で依頼したのかによって、また解釈変わってきそうだけど、次回描かれるのかなあ。
どちらにしても、史実として『栄花物語』となるその書物を、三郎の幼馴染で元恋人のまひろではなく、道長とともにファミリーを築き上げた倫子さまを第一優先とする赤染衛門が最終的に(史実どおり)書くこととなるのは、その経緯に まひろがどのぐらい関わるにせよ、まひろから倫子さまへのふさわしい仁義じゃなかろうか。

