いよいよ長編として動き始めた まひろの物語が、読者を最初のターゲット帝一人から少しずつ広げていく回。
その過程で、書き手側が何を狙いどう描くかだけでなく、読み手側がどう受容していくかにも作品それぞれの個性が立ち現れると明示されていくのが面白い。
彰子は「美しく賢く笛もご堪能」な光る君に一条天皇を重ね、一条天皇は光る君のその出生に敦康親王を重ねる。そして、作者まひろはどちらも否定しないまま二人を物語へ誘い込んでいく。この振れ幅広さが、光君における『源氏物語』であり作家紫式部なのだという静かな始まり。
中盤に、ききょうの力を借りて拝謁がかなったり、長徳の変で落飾を目撃したりと光君まひろは定子さま絡みで鮮烈な実体験を重ねているので、これは定子さまモデルで桐壺更衣を描くにも筆が奔るだろうなあと当然のように思っていたのですが、しかしここに至り、誰をモデルに物語を書いたか実は まひろ自身はドラマ中で一度も明言していないんですよね。
振り返ればここまで まひろが出会った物書く女たちは、日記・随筆・歌というその形式に沿い、作者の実体験と作品とが分かち難く結び付けられていました。
寧子(道綱母)は妾として生きる悲しみを癒やすため、兼家と過ごした日々を率直に書いて公にし、ききょう(清少納言)は心を捧げた主・定子のことを自分が見た眩い光そのままに書き留めて広めようとし、あかね(和泉式部)は奔放な恋に生きる艶やかなライフスタイルが、「思ったことをそのまま歌にする」歌人の才を飾る。
だから、読者のほうも容易に作者とその見聞に作品を重ね合わせ、作品の評判はそのまま作者本人もしくはモデルの評判へ結びついていたわけで。
石山寺で寧子に会った まひろは、日記で兼家の名をむしろ広めたと誇る寧子の自負と諦念を人生の先輩からのアドバイスとして受け取り、一条天皇ら宮中の人々は、『枕草子』に書かれた定子の姿を ききょうの狙いどおり美しい記憶として共有し、あかねの歌は彼女の心そのものと受けとられるので、代作の歌でも恋人に心変わりを疑われてしまう。
まひろも、序章でこそ自身の経験を基に珍妙な五節の舞姫物語を構想したり、散楽一座に提供した右大臣家の風刺劇で東三条殿の怒りを買ったりと、モデルが分かりやすい創作をしていました。
しかし、宣孝死後に書き始めた物語は、例えば『カササギ語り』はモデル元が(少なくとも作中では)示されていない全くの創作。とはいえ、例えばそこに描かれた「政に携わりたい」思いは、誰の心に刺さるかも分からず描かれた まひろ自身の言葉。虚だからこそ書ける実。
道長の依頼で書き始めた『源氏物語』も、道長に「生身の帝」の話を聞かせろと取材した話がネタ元になったのは間違いないものの、直接的に誰が誰のモデルだと まひろがイコールで結びつけた台詞はない。
また、ここまで まひろの人生に『源氏物語』自体のオマージュを散りばめていたドラマ上のフィクションも、その経験を基に『源氏物語』を描く布石なのかとほのめかしていたようで、実はこちらもまた、まひろが経験を直接そのまま物語へ転換しているわけでないのは、惟規のツッコミ「大勢の男と睦んだわけでもないのによく書けるね」で提示されているわけでして。
(光君の『源氏物語』オマージュは、後に創作する元ネタとしてまひろに経験させるのでなく、むしろ『源氏物語』そのものを描かないからこそドラマに入れ込んでいる「見立て」ではないかという こばさんの説が、一番膝を打った)
第1回の少女時代から魅力的な「嘘」をすらすら繰り出し、少し大人になってからは様々な依頼人の断片的な話を基に歌を代作していた まひろ。
ダイレクトなモデルでも実体験からでもなく、その知識と洞察力で まひろがパッチワークしていく虚実皮膜の物語は、作者やモデルと強固に紐づけられた読み方を規定しないからこそ、ぴったり重なるようで重ならない現実と虚構のあわいに構築されたリアリティに、何層もの解釈を可能にするのでしょう。読者はそこに、自分が見たいものを投影する。
一条天皇への密かな思慕を光る君に重ねる彰子の読みも、敦康親王の生い立ちも含め自身への政道批判を光る君の立場に見る一条天皇の読みも、きっとどれも正しく、それら幾通りもの解釈をおおらかに内包していくのが、「嘘」でできた物語の強度。
もっと言えば、「腹がたった」と言いながら物語としての出来と面白さを認め、(物語を献上した道長への挑戦状も含んだとしても)続きを促す一条天皇のように、必ずしも物語を心地よい”共感”のみで評価しない読者を獲得できるのも、そんな物語の強みではなかろうか。
31回感想で、晴明退場と まひろ出仕が入れ替わりであることから、光君世界における晴明の役割と まひろが書く物語も似たものなのではと書いたのですが、32回で死ぬ間際の晴明が、呪詛も祈祷も人の心のありよう、自分が何もせずとも人が勝手に震えるのだと言っていて、あながち的外れではなかったかなと。
晴明の呪詛や祈祷が人の心の解釈次第であったように、まひろの物語も読む側の心次第でこれから、依頼した道長はもちろん作者のまひろ自身さえ思いもよらぬところへ向かっていくのかもしれない。
だって「物語は生きている」のですから。
史実における『源氏物語』も例えば、純粋に面白い長編物語として、はたまた失われた華やかな王朝文化の参考文献として、各ジャンルに派生した源氏モノの元ネタとして、様々な読み方がされていますし、物語自体も、光る君を作中描写そのままの主人公として受け止める向きもあれば、最低の男としての嫌なリアリティを見出す読みもあり、また光る君を狂言回しにした女たちの群像劇と捉えることもできるし、臣籍降下された光る君がのし上がっていく政治劇を読むこともできます。
千年の間に、その時代や受容層に応じ、ありとあらゆる解釈が積み重なっている豊かさも『源氏物語』の面白さなんですよね。
光君の『源氏物語』もきっとこの先、様々な読み方が作中でされていくんだろうなあ。
一条天皇の読み方は、まひろと同じ勉強好きの「根が暗くてうっとうしい」同士のシンパシーでもあったと思うのですが、少しずつ心の内を見せ始めた彰子さまはどんな形で物語を読んでいくのか。もしかして彼女の中に大量に渦巻いているものを言語化する方法を、物語を読むことで学べるんだろうか。
実体験やモデルを直接創作に反映するタイプとは別に、鋭利な観察眼と知識で得たものを構築していく理屈型の創作者な まひろと、だから可能になる読みの多様さ。
千年残る歴史的大作家を主人公にした待望の文化大河で、創作と受容の関係をこう繊細に描いてくれたのは、とても嬉しい。
帝を藤壺に渡らせたい道長の必死な政治的思惑も、一旦火がついたらもう止まらない まひろの執筆欲も飲み込んで、きっと成長していくのだろう「生きている」物語。『源氏物語』を挟んだ一条天皇と道長の駆け引きと並行し、この創作と受容の様相をさらに掘り下げていってほしいです。

