光る君へ第31回 まひろと晴明
2024/08/23(Fri)23:53

まひろがぽつり呟く「人とは何なのでございましょうか」が、つまり「人にとって物語とは何なのか」にも聞こえてきた第31回。

ここまで まひろたち様々な書き手を通し語られてきた、人は何のために描くのかという創作論から、そもそも「物語」は何のためにあるのか、と千年前に遡って問いかける話にもなってきた。
大河だからじっくり長尺で描ける創作と受容の様相が、やはり面白いなあ。


道長が為時邸を訪れた前回ラスト。もし『源氏物語』執筆が最初から道長の依頼ありきで始まるならば、それで定子モデルに「桐壺」の巻を描いちゃう まひろさんてば相当に肝が太い作家だし、納品される道長くんの胃が心配だわとちょっと同情していたんですけど、いやいや、道長くんもさすが左大臣、覚悟決まってるスポンサーさま兼相棒編集者でした。見くびっていた、ごめん。

しかも、まずは彰子サロンで読まれるものを…とワンクッション置くでなく、最初からターゲット読者を帝ただ一人に絞って描かれる、帝のための物語。

女房たちの間で評判になるうち男性貴族にも広まり帝にまで届いたとか、実はそれも帝を彰子のもとへ通わせる目的だったとか、いろいろ説がありますけど、それらをすっ飛ばし、ストレートに献上され帝ひとりが読む『源氏物語』の図は、このドラマが紡いできたフィクションとして納得感とインパクトがありますし、また、定子さまただ一人を慰めるため ききょうが書き始めた光君版『枕草子』との対としても、とても美しい。


で、特に今回面白かったのは、見返り要求含めた遠慮ないやり取りの末に、これ以外はないと 原稿を差し出す まひろと、その内容に戸惑いながらも一旦受け取ったらきっぱり利用する道長の図。
何か既視感あるなあと思ったら、これ晴明と兼家道長が二代に渡って繰り広げてきた構図ですね。

晴明が天文暦地理医学ほか膨大な知識を集約したひとつの解を、動かしようのない天意として提示してきたように、まひろもまた漢学和歌など蓄えてきた知識や ききょう寧子らから受けた刺激を集約し、いわば”降ってきた”物語を紙に書き留め、「これで駄目なら、この仕事はここまで」と言い切る。

自分の答えにどう対応するかで相手の政治家としての器を量ってきた晴明のドライさは、国を背負う公務員陰陽師としての自負であり、また光君世界において実資の愚痴と並ぶひとつの基準線として、帝に対してさえ平等に機能してきたわけですが、今回まひろが捧げた物語も無自覚のうちに、実は道長と一条天皇を試しているんだろうなあ。

帝だって思いと行いが相反し迷い悩む生身の人間なのだ、とその御簾の内の孤独を まひろが慮るとしても、かつて、新楽府をもとに自分が語る政の夢を快く聞き入れたあの爽やかな若き賢帝の姿もまた、念頭に置かず まひろが執筆するはずはないでしょう。
帝をひとりの人間として御簾の外へ引っ張り出す作家まひろの視線は、と同時に、無謬性の保護をも引っ剥がすわけで。

過ぎた寵愛の果ての悲劇。絶望しながらも生き続け、世の乱れを防ぐため愛する皇子の臣籍降下さえ決意する桐壺帝の人間くさい責任感。思いを秘めたまま左大臣家に婿入りする光る君。思うままにならぬ世をもがきつつ生きていく人々の、仮構のリアリティ。
この物語に、一条天皇は何を見るのか。そして、この物語を知ってそのまま帝のもとへ届けた道長は、帝の反応にどう責任を持つのか。

物語とは、書き手だけでなく読み手もまた共に、過去を再系列化し意味を創出していく営みなんですよね。それは、定子の光だけを愛おしく集めた『枕草子』も、ききょうがあえて打ち捨てた陰をも魅力だと捉え拾い上げた『源氏物語』も等しく。

だからこそ物語に何を見出すかは、そのまま自分を映す鏡となる。
(言い換えれば、優れた物語は様々な映し方ができる多面性と懐の深さがあるとも)
晴明に助言や未来を問うていた兼家や道長が、いつの間にか晴明の言葉や献策で、自身の政治的資質や覚悟を問われていたのとよく似ていて。

道長くんが青年時代、自身の家を酷く笑い飛ばす散楽を好んで見ていたのは、直秀やまひろと出会うためや、大らかな性格設定というよりも、彼という人間にどうしても「物語が必要」だったからなんだな、といま思い返せば。
極端に戯画化された滑稽劇で「我が家は下の下だな」と突き放し客観視することで、逆に自分が産まれた以上そこで生きるしかない宿命を受容できていったのが、光君道長のぼんやりした諦観の一部だったんじゃなかろうか。

帝と定子の悲劇、伊周との軋轢にどうしてこうなったと悩む光君道長叔父さんにとって、自分への取材を基に書いた まひろの物語で、その悲劇のベースに、自嘲気味に語った「我が家の恥」「我が家は下の下」そのままが透けて見えるのは、整理し距離を置き再確認できる虚実皮膜な物語化の効用として、むしろ救いですらあるんじゃなかろうか。
この物語を帝のもとへそのまま献上するのは、道長が「桐壺」の巻に見出したものへの肯定の証。

同じ「我が家は下の下」を基にしながら、第7回のとき見られなかった まひろの「おかしきことこそめでたけれ」物語を、いまやっと道長が読めた感慨深さとともに、その物語が今度は道長だけでなく、傷心で時が止まってる一条天皇にもどんなさざ波を広げるのか、楽しみ。


そういえばこのドラマは、雨の到来を晴明が力強く告げ、その雨が まひろの家に降り注ぐところから幕開けしたんでした。
それを思い出すと、史実としても晴明の退場と まひろ≒紫式部の出仕がほぼ同時期なのは、何だか象徴的に思えるのです。

ファンタジー術師ではなく官僚的フィクサーとして、その時代的信仰心と合理性とのバランスが描かれてきた光君世界の陰陽師晴明と、交代するかのように、いよいよ まひろが物語作家として世に出てくる。

物語とは、祈りであり、風刺であり、天意であり、刃であり、戯画化であり、孤独の灯台であり、アイデンティティの付与であり、鎖であり、パッチワークされた過去であり、現在の肯定であり、未来への方向づけであり、そして切なる希望でもある。
ときに帝を降ろし奉る後押しとなり、ときに政治生命の終わりを突きつけ、ときに心の奥底の望みを自覚させてきた晴明の言葉のように、まひろの物語も何かを照らし出していくのでしょうか。

文学と政とが不可分な時代を描いてきた文化大河の後半戦、創作と受容のあり様が、ますます面白くなってきました。

 

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