光る君へ後半戦へ
2024/08/16(Fri)17:24

第30回。
いや、そうですね、さすがにいきなり『源氏物語』原型を書き始めるわけはなかった。先週ラストで、物語を書き始めた まひろについワクワクして期待が勇み足してしまいました。

というか、宮仕え前から『源氏物語』原型や序盤は書かれ、その評判から道長にスカウトされる説を『光る君へ』もなぞると、てっきり思い込んでたので、光君世界では道長の依頼がきっかけで『源氏物語』誕生の流れになるのなら、また予想がいろいろ変わってくるなあ。

ここまで、ききょうへの友情と理解が描かれ、定子の絶望と発作的出家も目撃した まひろなので、桐壺更衣のモデルも恐らく定子になるはず。
まひろが市井の立場で自由に書き始めたその物語が、道長にとってかつての散楽一座の風刺劇のような存在となり、過去と今の自分との差異を照射することになったら、頑固な創作者まひろと途中参加スポンサーさま道長の関係がどう展開していくか面白いな…と思っていたのですが、そもそも道長自身の依頼で創る物語を、よりによって定子がモデルの(少なくともそう感じさせる)ヒロインから書き始めるとしたら まひろさん、相当に肝が太い女だ。

と思っていたら、公式の後半見どころPRでは、道長どころか、一条天皇が「これは朕への当てつけか」とおっしゃっている。
えーと、これ順当に考えれば『源氏物語』を読んでの感想…になるんですよね?

光君世界における『枕草子』の美しさは、ウイカさんのインタビューにもあるとおり、定子が夫にそれだけ見せたいと願った光を ききょうが残そうと引き受け、一条天皇もまた妻で姉で母だった定子の光だけをいまだ見つめていたいという、ある種共犯関係の上に成り立っている部分がある。

確かに光君の一条天皇は、子どものころから真面目に頑張りすぎ、思い詰めてきた(割には色々うまくいかない)ゆえのダメージが、定子と母の死で限界点突破しちゃったのが現在なので、このナイーブな精神状態で、一見美しい悲恋物語のようで帝の過ぎた寵愛が后の命を縮めたようにも読める『源氏物語』「桐壺」の巻は、うまくすればグッと共感するでしょうけど、心の波と合わなければ大事故にもなりかねん。

次回、依頼主と作家の間にどの程度の打合せがあるのか分かりませんが、『枕草子』どっぷりの一条天皇の気を引くため まひろに書かせる物語が道長の思惑を超えた内容で、しかも「当てつけ」に思われちゃうとしたら、妻倫子の命をかけた訴えに青ざめた第30回どころではない胃痛に襲われそうだ、道長くん。がんばれ。
(もしくは1月頃のNHK特番で出ていた、光源氏と紫の上の年の差に一条天皇と彰子を重ね合わせ、一条天皇への感化を狙った説を取り込んでくる可能性もあるかな……。こちらも少しズレれば「当てつけ」になる可能性)

どうなるにせよ、本放送版予告を見るに、二人の会話で直秀が登場する、つまりこの世界で『源氏物語』が生まれる下地にあの散楽一座、「おかしきことこそめでたけれ」があるだろうことは、とても嬉しい。


今回、まひろが書いて評判を呼んでいたのは、カササギが見守る男女の性役割逆転物語。

ベースは恐らく『とりかへばや物語』ですが、体の小さい男と力持ちの女という組み合わせに、もしかして乙丸きぬ夫妻もヒントになったのかなと思ったり。「いつの世も男というものは女よりも上でいたいもの」で読者=上流層女性の共感を掴みつつも、後半は「男になりたい、男になれば政に携われる」と筆が走って読者をちょっと置いてきぼりにしてしまうあたりは、奇抜な五節の舞妄想で散楽一座をポカーンとさせていた頃と変わらなかったり。
ああ、いかにも、この光君まひろさんが書きそうな物語だなあと自然に思われて。

語り手がカササギなのは、『源氏物語』「浮舟」の巻に出てくる「鵲」が実は「鷺」の書き間違いでは?と後世の注釈者たちを悩ませているので、本物のカササギを知らず文献の知識のみで自然物を書いた(これ自体は当時の貴族として特に珍しくもない)ように、今のまひろもまだ想像主体で物語を書いていることの暗示なのか、そもそもこのカササギ物語自体が『源氏物語』中の「鵲」のように存在しないフィクションだよと示す小ネタなんでしょうか。

とはいえ今回のカササギは、七夕の夜に天の橋をかけて男と女を会わせるカササギがしっくり来るのかな。カササギ物語の評判が二人の間に橋をかけ、道長がまひろのもとへやってくる。これ光君感想で何度も書いてるんですが、今作のまひろは橋を渡る描写が印象的に描かれているので、今回は道長のほうが橋を渡ってきたのかと思うと、ちょっと感慨深い。


後の和泉式部、あかねさん登場。

和泉式部といえば個人的に好きなのが、「かるもかき臥猪の床のいを安みさこそ寝ざらめかからずもがな」で彼女が「猪」を巧みに詠んだので、以来和歌の世界では「猪」といえば、勇猛で荒々しいイメージではなく、「臥猪の床」でやさしい恋のイメージが定番になったという話でして。
大手作家さんの二次で思わぬ脇役に思わぬ人気が出る現象に似てなくもない。
たった一首で、世間一般と異なるパブリックイメージをとある動物に付し、それが後代まで続くほど周囲を納得させてしまう。自身の感性を信じてふわりと詠み込める一途さ、それを可能にする才能に、ああまさに天性の歌人なのだなと。

千年後まで残る定子さまのイメージを『枕草子』で形作った清少納言とも通じるものがありますが、定子さまが最終的に没落した家とはいえ生前は最高位の后で、死後は同情と鎮魂の対象でもあったのに対し、ただの獣でしかない猪のイメージをただ31文字だけで規定した和泉式部の強さは、別の意味でとてつもないと思うのです。

光君のあかねさんも登場早々に、理論派まひろの講義を退けて「思ったことをそのまま歌にしているだけ」と言い放ち、明るい天才性を発揮する。
わざわざ大勢の前にしどけない姿で現れ親王様との朝寝を匂わせるのも、女として愛されている自分を誇るというより、その愛や恋を思いつくまま詠んで美しい歌にできる自分の才をこそ誇りにしているんだろうなあ。「お話し」「お放し」の言葉遊びにあそこまで敏感に反応するのは、当意即妙の歌を身上とする歌人だからで。
渡部泰明先生の言う和歌の「演劇性」も体現した和泉式部像が見られるんじゃなかろうか。

そんな彼女に、共感はしないけれど理解を寄せる まひろは、やはり後の大作家になるための筋肉を着々と鍛えている。あれほどの群像劇、大勢の登場人物を描くとしたら、自分の苦手な、もっと言えば気に食わない人物でも人間らしい肉付けをもって描けるほど感情移入と観察ができなければ、引き出しが増えないもの。

※光君とは関係ないですが、泰三子先生原作の読み切り『シキブアイラブユー』で、魅力的な新キャラ出しては死なせまくる紫式部に道長が「なんでこんな破壊神に『素敵の女の子キャラを生み出す才能』を天は与えたんだ」とぼやくシーンがとても好きでして。
男性キャラも多いけど、やはり女性キャラのバリエーションがものすごく豊かなんですよね、『源氏物語』。
光源氏はあくまでも狂言回しで、恋多き貴公子をダシに多種多様な女性たちの人生を描くほうがメインだったという説も結構納得してしまう。

道兼のことさえ琵琶の音とともに消化し、越前では言葉の通じぬ者同士のコミュニケーションをも経た今のまひろが、あかねのような強烈な個性も柔らかく受け止める姿に、ききょうさんと初めて会ったときのぎこちなさを思い出し、その成長にちょっとほろりとするのです。(とはいえ、そんなまひろでも実の子にだけは「子を思ふ道に まどひぬるかな」になってしまうのが、人情なのですが)

その上で、後半見どころPRでまひろの言う「物語は生きておりますゆえ」には、どんな創作論が発露されるのか。いよいよ「いづれの御時にか」とともに、後半戦開始。

 

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