原作が先かアレンジが先か/君ゆき総括
2024/09/29(Sun)00:38

先日最終回だった君ゆき、少し前に見終えました。
ここまで来たらやはり見届けておかねば…と録画を消化し、ゴールに倒れ込んだ感。ドラマの見方として決して褒められたもんじゃないのは承知で、この完走を自分で勝手にねぎらってやりたい。まずは酒を飲む。

こちらも長年オタクやっているので多少の原作アレンジには今更動じませんし、むしろ杓子定規な「原作どおり」よりも大胆な改変再構築にこそ顕著に現れる創り手の手塚マンガ観を、楽しみにしてきたところは昔からあります。
とはいえ、今回はちょっとその質が違ったというか、「手塚マンガ原作に対する解釈違い」すら発生しない奇妙さが半年間続き、その困惑が今もぷかぷか宙を飛んでいる状態。正直、手塚ファン歴の中でもここまで奇妙な体験は初めてでした。強いて言えば、サファイヤを魔法少女に改変したあの『リボンの騎士』リメイクマンガ以来か。いやでもあれだって主要キャラの性別と所属陣営ぐらいは大まか遵守されていましたっけ…。
というわけで、困惑を整理し区切りをつけるため、その奇妙さをメモしときます。黒じょか1回あける間にいけるかな。


結論から言うと。作品単体だけで見れば、話もキャラもそれなりに筋は通っていたとは思うのです。ただ、もはやオリジナルと言ったほうがいいそのストーリーや人物描写が、原作とは「別物」と済ませられるものならまだしも、たまに原作のパーツを律儀に拾おうとすると却って手塚マンガ原作側のそれを「否定」する造りになってしまっていたことが、今作に感じた最大の困惑でしょうか。少なくとも原作側からの視聴者として、私にはそう見えた。

具体的に挙げますと。

芹沢は、原作ではその粗暴さを丘十郎が新選組、ひいては己の誠を濁すものと見なし、それを芹沢暗殺後にも再び土方副長に見て絶望するという、終盤で主人公個人が下す決断へつながるフックであり、ラストで決別したものの一部なんですが、ドラマでは芹沢を実は大局の見えている中ボスに設定したので、彼の死は組全体が背負う罪悪感の意味が大きくなり、丘十郎にとってもその言葉が肯定的に思い返される存在となった。

沖田さんは弟ポジションの不思議キャラになり、また物語も池田屋後まで描かれたので、後半は沖田さんの悩み迷いもメイン要素になった結果、序盤では一応原作どおりだった台詞「剣は人を切るものではない 己の心を切るもの」を、中盤で自ら「そう思ってたはずなのに…」と否定する流れが発生してしまった。(ここ、原作の決め台詞をあえて否定したからには、その後フォローあるかなと思いましたが、結局ラストまでそのままでしたね…)

原作では僅かな出番ながらも近藤局長の働きを労ってくれる容保公は、組に外圧を加え物語を動かす必要な役割とはいえ、浪士たちへの警戒と注文が厳しい厄介お殿様になったので、この御方を信じ従う近藤局長の「誠」の意味が揺らいでしまった。

南無之介と八重は、南無之介の献身という一点を除き、性別生い立ち立場信条など全くの別キャラに変更。
原作の八重は、刀を持てずとも短銃で非力を補って仇の丘十郎を狙い続け、旅立つ丘十郎を見送る時ですらその短銃で暗殺者を撃ってやるのが餞になる行動型なのですが、ドラマ新之丞は、刀を持たないところだけ継承した上で、人を傷つけてはいけないと(チーム構成上必要なポジションとはいえ)優しい正論を言う被保護者お坊ちゃまに。さらに、原作八重は助力してくれる南無之介にも指一本触れさせない鉄壁のお嬢さまですが、ドラマ新之丞は、お家没落後に生きるため悪徳商人に体を売ったらしい性被害の過去が付与されました。これはほんと何だったんだろう。

原作で南無之介が八重の敵討ちに助力するのは、単に八重に惚れているだけでなく、丘十郎がその剣を曇りがないと認めるとおり何よりも武士としての”正しさ”ゆえであり、だからこそ丘十郎は合わせ鏡で自分に突きつけられたそれを心底「くだらない」と思い、彼の死が武士らしさのアイデンティティに疑いを持つ契機になるのですが、ドラマの南無之介は丘十郎と対決はせず死にもせず、熱烈に仕える新之丞さまと幸せな主従関係を保持したまま蝦夷に旅立つので、実は旧弊の武士らしさ(たとえ主従関係という属性に限られたものでも)を肯定してしまうポジションになっています。
※手塚マンガのメディア化で忠義主従属性を混ぜることへの疑問は、また話が長くなるので、そのうち別記事を上げる。

こうして敵討ちエピソードが南無之介と八重の改変で消えたため、おそらくラスト手前の山場として代わる位置が山南さん切腹だと思うのですが、ショッキングではあっても別に丘十郎が手を下したわけでないので、原作のように「恨みも憎しみもない」男を斬った虚しさとして、大作との果たし合いの前段になる効果は出てこない。なので、丘十郎が己の手で斬ってきた数々の命の重みを省みることもないまま、親友・大作を斬るラストへ突入することに。

土方副長はふつうに真面目な板挟み参謀だったので、丘十郎に親友を斬らせる鬼の命令は、原作のように武士の残酷さをダメ押しで突きつける言葉どおりの意味でなく、単に「真の友は斬れない(笑顔)」と丘十郎を新天地へ送り出す物わかりのいい先輩仕草になる。

そして、オリジナル過去と丘十郎にこだわる理由が足され、池田屋後は丘十郎のため長州藩士を斬る裏切り者になるという超展開を遂げた大作。
そのため、原作では友だろうが仲間だろうが非情に斬る間者モードの象徴だった黒頭巾変装は、闇落ちしてでも丘ちゃんを守る…!な湿度高め極太矢印の象徴になり、何より、実は自分の命にすら頓着していない大作のあっけらかんと哀しい諦観が凝縮されていた偽りなき台詞「そろそろ やろうぜ」「君か僕か どちらかが死ねばいいんだ」は、ここまでキャラクターも行動も変わったドラマ大作に言葉だけそのまま言わせることで、露悪的な言葉であえて友を誘導する嘘=その後の真情を告白する紅涙絞りシーンのただの前フリになってしまいました。
花火だけ原作の十割増しサービスされても。

何よりも。大作を死なせず、桜は散ってもまた咲いて満開になる…のモノローグで丘十郎といつかの再会をほのめかし終わるのは、それはそれで救いのあるハッピーエンドでしょうけど。
原作では丘十郎が大作を殺したという決定的な喪失を抱えてる以上、死と再生の先に成長痛を抱えながら進むのは不可逆の旅路でしかないのですが、ドラマでは大作と別れ旅立つ丘十郎に毎年巡る季節の反復再現性概念が重なるので、旅の先に見る希望が全く変わってしまった。単に重要キャラの死を回避した改変というのではなく、これはテーマそのものに掛かってくる。


えーと、思いついた順に打ってるだけでも、相当な量になってきたぞ。1回見たのみの記憶で書いてもこの量なので、また見返したらもっとあるかもしれない。


事前番組やSNS広報で、手塚マンガ原作愛読者は想定客に入れてない雰囲気が端々に見えていたことからして、おそらく今企画はそもそも、手塚マンガ『新選組』のドラマ化として始まったのでなく、新規時代劇枠にちょうどよいマンガ原作としてたまたま『新選組』が選ばれた、というほうが近いのでしょう。
うん、分かってた。最終回まで見てやはり確信した。

それはマンガメディア化として珍しくないし、手塚マンガが例外じゃないのも理解してる。
でも、たとえ企画ありきから始まるメディア化だとしても、例えば「全編iPhoneのみ撮影の短編映画」という趣旨にぴったり合致する原作を選定し、原作と映像双方の魅力を最高度に引き出した三池監督『ミッドナイト』のような職人技メディア化が今年もあったばかりなのを考えると、ここまでやりたいことが明確なドラマ企画と、そこに要素を拝借する元ネタとしての『新選組』、もしくは手塚マンガ自体とのミスマッチが、余計に際立ってしようがないのです。

何がミスマッチだったのか。

恐らくこのドラマ、原作や史実との違い云々の前に、まず登場人物たちの配置が、スポーツ部活もの少年マンガのフォーマットに近いんですよね。
経験値も技術もない”平凡”な主人公(丘十郎)が、一生懸命稽古に打ち込み意外な才能を開花させていく。性格に難ありの天才(大作)も、その主人公の愚直さ健気さにほだされ、彼や仲間と打ち解けていく。それを見守る個性豊かな先輩たち(試衛館メンバー)と、主人公に最初から目をかけてくれている部長(近藤局長)。
90~00年代あたりの3大少年週刊マンガ誌を開けばどれか1誌には必ずこのパターンが載っていた気がする、テッパンの黄金スタイル。実際に作中でも丘十郎たち新入りが試衛館メンバーを「先輩」と呼んでいますし。

そのフォーマット+若手俳優で新選組を描くというコンセプトの良さは、よく分かるんです。隊士を演じる大勢の俳優それぞれに見せ場をつくれるし、和気あいあいとした前半から、人が非情に死ぬ後半へのギャップで、全20回の長尺も生きますから。

しかし、土台となるそのフォーマット自体が、そもそも手塚マンガとは全く相性が悪いんじゃないでしょうか。

あれほどジャンルが多岐にわたり、かつ流行りものに敏感だった手塚マンガで、スポーツものがほとんどないのは有名な話。
また同時に、いわゆる男子わちゃわちゃチームものも非常に少ないです。それなりに人気があった少年誌連載作品で、ぱっと思いつくのは『白いパイロット』『ナンバー7』『ノーマン』、変化球で動物モノの『ジャングルタロ』ぐらいでしょうか。ほかに学園モノ的装いの作品として『おお!われら3人』や『快傑シラノ』ガスコン青年隊パートもありますが、やはりどれもチームという形を取ってはいても、中で動く関係性は物語の主軸ではないです。

これは、戦中世代として手塚先生自身が繰り返しエッセイなどでにじませている組織や体制なるものへの懐疑ゆえなのか、もしくは生死さえ突き放し俯瞰するマクロな叙事詩的作風が、限定されたハコの中でミクロな個人間の関係性変化と情動を軸に展開していくチームもの作劇と決定的に合わないためなのかは、分かりませんが。


初回放送後に配信された脚本家さんのトークによれば、この企画を依頼され原作を読んだとき、その短さにどう2クール分膨らませるか相当悩まれたとのこと。うん、それは当然だと思う。大変お疲れさまです。
それでも原作を読み惹かれたから引き受けたとのことで、それは原作ファン側として大変嬉しい言葉でしたが、原作で惹かれた要素だとあえて抜き出し語ったのが「無常観」「儚さ」「切なさ」…と割と取りかえのきく概念単語だったあたり、そこまで抽象化した要素でないと、企画として決まってたフォーマットへのすり合わせは困難だったのかな…と思わなくもない。

オーディション自体をコンテンツにする手法などに現れていた、若手男性俳優とその関係性を押し出す売り方。2クール分に膨らませるため複数並行で描かれる属性の掛け合い。そして、チームものの情動描写とは元来合わない手塚マンガの突き放した死生観。
これらを律儀にすり合わせようとすればするほど、原作手塚マンガの要素を概念レベルに解体するしかなくなり、しかもそれを、ドラマ単体としての整合性を優先し出来上がった骨組みの隙間にはめていった結果、原作で置かれていた文脈とは意味が反転してしまう魔合体が発生したのが、今回のドラマだったんじゃなかろうか。

冒頭で「原作に対する解釈違い」すら発生しなかったと書いたのは、あまりにも原作の要素が文脈から切り離され細かく分解されると、それはただの汎用的なパーツでしかなくなるからですね。
汁粉や洋書などの小道具を律儀に入れていたのは脚本家さんの真面目さかもしれませんが、まったく別の文脈でぽんと入っていたので、汁粉は大作がニコニコと二十杯食ってギャップを引き立てる甘味ではない、ただ青春の1ページになるだけの甘味だったし、洋書は近藤と芹沢の器を分ける分岐点でもない、ただ丘十郎のピンチで引きをつくる小道具。そこには原作への解釈さえ産まれなかった。虚無。


というわけで、これは番宣の頃から言っているように、やはり「シン・時代劇」と称する新規枠で『新選組』原作という最初の企画からして、そもそもズレていたし、無理があった。

脚本家さんの配信では、何度も何度も原作サイドとすり合わせをしたので、この改変は原作側も承知だと強調されていました。(例の事件の記憶がまだ新しい時期だったのもあるかも)
つまり、手塚公式側にはこの改変を止めるチャンス、もしくは『新選組』そのものをこの企画には合わないと引き上げるチャンスだってあったんですよ。でも、そうしなかった。

ストーリー上絶対しないだろう行為をキャラクターにさせる広告(例:婚活サービスのCMに出る黒男先生等)であったり、コラボと称して画風真似イラストレーター氏の手塚風○○絵を乱発したりと、手塚先生が残した作品を「作品」そのものではなく「要素」で売ってきたここ何年かの公式の商売と、今回のドラマは、やはり同じ延長線上にあるのでしょう。


今回ドラマを最後まで見て、やはりメディア化では脚本家など直接の改変を手掛ける作り手というより、大本の企画を手掛けるPや許可元の公式の判断こそが大事なのだと再確認し、そして原作を文脈から切り離した要素へここまで解体して枠の特殊性に無理やり当てはめると、原作のテーマ性までひっくり返る現象が起きるのだという、興味深い知見は得ました。二度目は絶対要らんですが。

願わくば、次に目にする手塚マンガのメディア化は、原作の各要素が置かれた文脈から引き剥がされず、その必然性ごと移植先の媒体で意味を輝かせるものでありますように。解釈が合うも合わないも、そこから先の話なのですから。私がメディア化で見たいのは、何度も言うけど作り手の手塚観と解釈なんですよ。

(というわけで、えらく評判のいい七色いんこ舞台の配信が楽しみ)

 


 

追記。

南無之介と新之丞さま、ラストはちょっとキャンパーズなノリで明るく蝦夷へ行ってましたけれど。
しょ、正気か……!と思ってしまうのは、『シュマリ』のイナゴ襲撃&暴風雪描写とか、『山太郎かえる』『ロロの旅路』あたりの親子死に別れをすぐ思い出しちゃうからですね。手塚マンガ読者の蝦夷地認識は、夢の新天地でも何でもなく、一歩間違えれば死ぬ厳しい大地。

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