・日曜は帰りが遅かった上にいろいろあったので、1日遅れの録画視聴。
・そうかこれがベテラン作家の描くお手本のようなすれ違いラブストーリー…とため息吐きつつ、それにしても散楽一座の悲劇からこっち、兼家パパの華麗なるてっぺん取りゲームが進んでいく横で、まひろ道長の両片思いシーソーだけでもここまで持たせている豪腕を見るにつけ、時代考証担当倉本先生が、ドラマと史実は別物として楽しんでね!宣言されていた放送前インタビュー記事で、「脚本を担当される大石静さんはラブストーリーの名手ですから」とも言われてたのを思い出しては、なるほどとなっています。
・そして、このもだもだ恋愛すれ違い劇が単に「ドラマと史実は別物」なフィクションを盛り上げる要素というだけでなく、平安中期に女性が置かれた状況、人生の選択肢、彼女たちを文学へ向かわせた動機、主題などの時代文化背景を自然と視聴者に想起させるフックにもなっているところが、やはり「大河ドラマ」として面白いと思った第12回。
・道綱がぽそり打ち明ける話で初めて、妾=待つ立場の辛さに気づく道長。
詮子姉上の、帝に遠ざけられ放置された女としての哀しみを見ていたはずなのに、まひろを妾にすることの意味に初めてここで思い至る迂闊さは、まひろ以外にお付合い経験のない彼らしくもあるし、また時姫が、道綱母をはじめほかの女のもとへ夫兼家が通う夜にも道長ら子供に辛さを決してこぼしていなかった(ちやはのように)のも恐らくあるのだろうなあと。
狭い家で父の不在と母の辛さを鋭敏に感じていた まひろと、広い東三条殿で父の不在も母の辛さも特に引っかからずにいた三郎との違いでもある。
というか道長、あの様子だと『蜻蛉日記』は未読なんでしょうか。
いや確かにF4で漢文講義を受けてるような未来のエリート候補からすれば、かなの女流日記文学は教養の範囲外かもしれませんが、自分の家を笑いものにする散楽には興味津々で通ってた彼が、自分の父を割とずけずけ書いている日記文学には興味が薄いとしたら、やはり今作の道長は読み書きへのアンテナが相対的に低いキャラとして、書物が苦手な(しかし貴族的賢さと政治性の感度は高い)倫子さまと併せて、ベクトル一致するよう設定されている。
なので余計、この道長が(もしくは倫子さまと夫婦そろって)やがて、まひろの書く分厚い物語に価値を見出すまでに、どんな器を備えていくのかが楽しみでして。
・散楽一座の出し物で作中、道長が唯一見られなかったのが実は、第7回のまひろ作の滑稽劇なんですよね。そして、俺の家を笑いものにする劇を書いたのかと まひろに問いながら、俺も見たかったとあっけらかんと言いのけた道長。
もし今作まひろの抱く『源氏物語』執筆動機が、「桐壺帝=一条天皇/桐壺更衣=定子」モデル説に依るものになったら、中関白家ひいては定子さまが我が家にとって今どういう存在か分かって書いているのかと問いながら、それでも書き続けるよう求める道長、という図になるのでしょうか。第7回の繰り返しのようで、いまや互いに違うものを背負うようになった二人が再び交わる図。そして底には直秀の魂が見え隠れする。えーそれはちょっと見てみたいな、と、予想だけしておきます。
・話が第12回感想からずれた。閑話休題。
・六条の廃邸で道長とまひろが交わす会話。
ここ、もし道長の話を聞くより先にまひろが話していれば、「妾でも構わない」とそのまま言ってしまい、倫子を北の方にした後も道長がまひろのもとへ通う口実を与えていたかもしれないし、まひろが倫子さまを心から尊敬するようになってしまった後だからこそ、きっぱりああ言うしかないという、絶妙な運命の分かれ道とその塞ぎ方が巧いなあ。
そしてまた、この期に及んでもなお、妾になってもいいとまひろに言ってほしくて、この結婚は「地位を得てまひろの望む世をつくる」ためだ、お前の志のためなんだと共同責任を負わせようとする道長くん。
その必死さは分かりますけど、倫子さまを「すばらしい姫様」という言葉に嘘はない まひろからすれば、彼女と結婚しても幸せじゃないと言い切るのは、あの第7回の帚木部室会話で倫子さまさえ含め女性陣に勝手な品評を加えていた公任らと同じこと言っていると、分かっているのか。
それでも、お前に言われた志を遂げるためだと告げられれば、その理屈で自分を納得させてしまうし、断り文句も、単に身分が違うと環境のせいにするでなく、愛していないと感情に結びつけるでもなく、「たどる道」「生まれてきた意味」と硬派な言葉で返してしまうのが、まひろさんの業なのですね……。
うん、確かにこの人なら、主人公が公的私的幸せに満たされた頂でハッピーエンドにせず、そこから我が身を振り返り人生を問い直し世の無常を透徹するところまで踏ん張って書き通してしまう。
・そういえば、史実の道長さんが記した『御堂関白記』の書き間違いはよく話題に上がりますが、例えば「晴明」と書くつもりが先に「明」の字を書いてしまったので、その「明」の上に「晴」を無理やり書いたり、「童女四人」と書くつもりだったらしいところで、その4人に賜う絹の「疋」が頭にあったのか「四疋」と書いてしまったので、「疋」の上に「人」を重ねて書いたり、思考が筆より先走ってるがための間違いも結構あるのが興味深くて。
夏目漱石の『坊っちゃん』自筆原稿で、「詐欺師」と書くべきところ、「詐」の言偏が次に書く「欺」の其に引きずられて「其乍」になっているのと同じ逆行同化。
まひろにフラレた勢いで、庚申待の夜にもかかわらず倫子さまのところに押しかける道長のせっかち具合に、ちょっとこの『御堂関白記』の筆運びを思い出しましたし、またそこで、チャンスをすかさず掴む倫子さまは、やはり似た者同士なのだと。ああ、これは確かに、いつか天下を取れる夫婦だ。
・惟規とさわさんが文を見ても「道長」の名前にピンとこないのは、それだけ内裏の政治からかけ離れたところにいる証で。父に放置されてるさわはともかく、学生の惟規が今をときめく摂政家三男坊の名に気づかないのは、ちょっといいのかと思いますが、そんな世の政に疎い二人は、単に道長という男を知らないことだけでなく、頭でっかちに「生まれてきた意味を探す」と思い詰めてしまう まひろにとって、救いなんだろうなあ。
高倉の女エピは、まひろにとっては、「妾」の人生(もしかしたら男に慈しまれ幸せに世を去ることもあり得る未来)を垣間見せて道長とのすれ違いを演出するだけでなく、このタイミングでさわと出会わせる意味も持っていたのが、作劇としてうまいし優しい。
・ところで、まひろと姉妹のようだと話しているさわさん、もしかして「めぐり逢ひて 見しやそれとも」のお相手に相当する人物になるんでしょうか。えーと、だとしたら彼女は……え、そんな、ちょっと待って、まひろの支えのためにもオリジナルキャラということにしておいてくれませんか。

