今週は作業中、君光第1回からの録画をぽつぽつ流し見。
あの第11回ラストを見た後だと、さかのぼって第1回で、嘘をつかれたと分かっても「怒るのは嫌いなんだ」と返したり、第4回で、自分のため怒る彼女に「俺はまひろのように むやみには怒らぬ」と笑っている道長くんが、ほのぼのと懐かしい。
序盤のこの呑気さが道長の本質で、またそれで済まされてきた(嫡男ほどの責任感や自負はなく、次男ほど父の承認を求める焦燥はなく、姉ほどに大事なものを奪われた手酷い経験もなく、常に一歩引いた立場を許されてる)環境だったことを思うと、まひろがどうすれば納得するのかもう訳分からなくなり「どうしろというのだ」「勝手なことばかり言うな」と叫んだ第11回は、よほど余裕をなくしてたのだな…、というか、人生で初めて欲望や焦りや怒りというものを抱えてしまい、手に余るそれに振り回され自分でも戸惑っている成長痛の段階が、まさに今なんですね。
一方で、序盤にはよく怒っていると道長に笑われていた まひろは、第8回で「あの男に自分の気持ちを振り回されるのは もう嫌なのです」と道兼の前で琵琶を弾いたとき、ひとつ段階を乗り越えている。
そんな彼女が、第10回の和歌漢詩ラリーと「志」攻め説得から一転、第11回の道長にじゃあどうしろと?と悲鳴を上げさせる拒絶は、確かに突然感情的になったようですけれど、道長が自分以外の女(=北の方)を娶りながら妾のお前が一番だと言う、そんな未来を理屈抜きで「耐えられない」と拒絶するのは、まひろの中では「男に自分の気持ちを振り回されたくない」で矛盾なく一貫してるのではなかろうか。
だからこそ、道兼への恨み怒りでさえ理性とプライドで抑え込めたはずの彼女にとっても、一旦振ったのに誘わればまた飛んで逢いに行ってしまうほどに抑えられない道長への思慕は、人生で初めて手に余っているものに見えて。
ここで、第4回の宣孝とまひろの会話が、ふっと差し色のように明るく浮かんでくるのです。
誰よりも学のある父が(十代の娘から見れば)道に外れたことをしている。学問とは何のためにあるのか。父を許すことも分かることもできないのに、その命に従って間者を続けてる自分自身も理解できない。
それは為時もお前も人だからだと、まひろの混乱を宣孝はさらりと和らげる。
まひろさん、渦巻く感情をぐっと呑み込み踏ん張る胆力があるし、いざとなれば学問という逃げ場所もあって、基本的に理屈で自分をねじ伏せて前に進めるタイプなだけに、いま道長への感情で「振り回されてる」自身の心にどう理屈をつけるべきか悩みそうで、だからこそ宣孝の「人だから」論は救いになるんじゃないでしょうか。
今はまだ頭でっかちなところが勝る彼女が今後、創作者として己を深めていく上で、単に自身の経験値だけでなく、大抵の業や矛盾は笑って受け入れている宣孝から得ていくだろう感化は、学問に書かれる理想と世に満ちる悲哀との遠い彼方此方を糊付けする得難い能力になるのではと。
呑気で怒るのが嫌いだった三郎と、よく喋りよく怒っていた まひろ。
対照的な地点から始まった二人の感情曲線が、第11回までの成長とともに交差しまた互い違いの方向へ仲よく伸びていってるところがやはりソウルメイトだし、また少なくとも今の時点では手を取れば共にズブズブ溺れてしまうとよく分かる若い二人だけに、そんな若者をおおどかに包める宣孝の器が、ちらちらと まひろの側に映り込んできているのも、安心とともに巧いなあと思うのです。
あと、第1回で為時パパが兼家に雇われた経緯をこのタイミングで見返すと、何とも感慨深いですね。
家司が留め置いてたような文の相手でも、たまたま目に入り使えると思えば、久しぶりだといかにも親しみを込め、話を合わせられるのは上に立つ者の技術ですし、だからこそ一旦裏切られたときの怒りは凄まじい。
為時パパへのもっともな、しかし非情な宣告を兼家が下した第11回に、たった一月同じ職場だった同僚の顔を多分忘れてて、お菓子への律儀なお礼に戸惑う道綱も入れるのは、きっとわざとなんだろうなあ。
父親とは違い、人の顔やつながりを細かく覚えてない分、自分が人にしてやったことも覚えていない。だから恐らく恨みも深くは覚えない。兼家が望む頼もしさはないけれど、違う形で生きる力を持っている子。
さて、道長の記憶力はどちら寄りになっていくんでしょう。

