二月歌舞伎座昼の部『籠釣瓶花街酔醒』を見てきました。
以来ずっと、八ツ橋は一体どうしたらよかったんだろうか、そもそも次郎左衛門のあれは本当に「恋」だったのだろうか……と思い沈んでいるうちにめでたく千穐楽となり、二月が終わってしまいますね。あわわ。
自分の感想はおそらく世間とはズレてるんじゃなかろか、とは毎度のことを薄々思いつつ、お二人のこの初役をリアタイ目撃できた幸運と、自分なりの衝撃を文字にとどめておきたいので、まとまらない脳内の嵐をポツポツ試みに打ってみます。
勘九郎さん沼にハマってから、ずっと見たかった念願の『籠釣瓶』。
一応最近の大御所がされてきた過去作の映像も見てきた上で、それぞれ印象の違いを、乱暴と承知であえて端的に言い表すならば。
あの愛想尽かしの場面。
勘三郎さんの次郎左衛門は、男が心底惚れた女にフラレた哀しみに見え。
吉右衛門さんの次郎左衛門は、男の沽券を潰された屈辱に見え。
そして今回、勘九郎さんの次郎左衛門は、人としての尊厳をズタズタにされた(実はそんなのとっくに慣れて生きていた、でも暫く忘れられていたはずのそれを再び思い出してしまった)青年の絶望に見えて。
勘九郎さんの口跡が(追善だからいつも以上に意識されてたのか)お父様にびっくりするほど近いのに、その奥からにじみ出てくるのは吉右衛門さん寄りの、いやもっと端正できっちり生真面目な男の融通きかなさだったから余計、そこに宿る哀しみが印象深く。
果たして古典作品にそんな感想を抱いていいのか分かりませんが、ものすごく現代的自我を感じる、生々しい痛みにあふれた若者たちとしての次郎左衛門と八ツ橋だったなあと。この感覚は、コクーン三人吉三を見たときの衝撃にも近いです。
そもそも権八は、栄之丞をたきつけ八ツ橋に愛想尽かしをさせて、一体何をしたかったんだ?をじっくり考え始めると、ものすごーーく怖くて。
一番はもちろん、ただ場を引っかき回しほくそ笑みたいだけのヤクザ的な意趣返しなのでしょうが、権八がどこまで考えていたにせよ、八ツ橋が身請けを断って先々まで得をするのは、誰よりも権八なんですよね。(八ツ橋が身請けされて困るのは栄之丞も同じですが、彼の場合あっさり別の寄生先を見つけられそうではある)
第二幕の始め。それまでに権八は何度も次郎左衛門から金を借りており、さらに今日また「娘が身請けされるなら商売を始める」と五十両せびりに来た。それはさすがにと立花屋にぴしゃり断られたのが、逆恨みの発端。
つまり、身請け話が進む限り、もしくは八ツ橋の一番客が次郎左衛門(立花屋経由)である限り、この方面からはもう金輪際、銭を搾り取れないと確定してしまった。
しかも、後で少し話が出るように身請け確定時には親判代理者へも金が入るはずなのですが、しっかり者の立花屋が権八の借金は証文取ってるので、それすら相殺になる可能性が高い。
ならば、身請けさせず、かつ権八視点ではもう金にならない次郎左衛門も客として縁切りさせたほうが絶対に得なわけで。だって、八ツ橋なら容易にまた別の上客がつくでしょうし、その客が、ガード固い立花屋以外の茶屋を通して来る(=近づいて借金しやすい)可能性だって十分あるのですから。
実を言いますと、映像で過去の『籠釣瓶』を見たとき、愛想尽かしの迫力などにはもちろん痺れたものの、「で、実際問題、八ツ橋はどうしたかったの?」と疑問も正直ありまして。(古典に整合性を求めるなというのは置いといて)
身請け話が次郎左衛門一人の思い込みでなく、順調かつ正当な手順でほぼ決まりかけてたのは、八ツ橋の“心変わり”に戸惑う周囲の反応からも明らか。
あの場でいきなり話をひっくり返せたのを見れば、途中まででも(少なくともあの作品中のルールでは)花魁本人に断る権利が全くなかったわけではない。
栄之丞に誓ったとおり身請けされるつもりが本当になかったとしても、ならば目前に迫ってたろう身請けが「表向き」になる事態を、彼女は実際どうするつもりだったんでしょう。
玉さま八ツ橋の輝く色気も、福助さん八ツ橋の婀娜っぽさも、どっしり貫禄で美しいだけに余計、愛想尽かしの前後で思慮の浅さが奇妙に際立ち、「栄之丞が好きだから」だけでは割り切れないものが残りました。
でも今回、七之助さんの八ツ橋に、ストンと胸に落ちるものがありまして。
廻し部屋の場で、恋人に責められオロオロ弁明する細く頼りない肩に、ああそうか、そもそも花魁なのだから八ツ橋、せいぜいまだ二十歳前後程度の娘さんなんだよなあと、思えば至極当然の事実がスッと自然に入ってきたのです。
ニザさま栄之丞のさすがな美しさと、次郎左衛門のあばた面との対比につい目が行くのですが、それを取り払えば、八ツ橋の愛想尽かしは「醜い金持ちの男より間夫への愛を選んだ」というより、ただ単純に「決まりかけていた契約をひっくり返した」話に近い。しかも身請けという、少なくとも苦界、権八たちの搾取から逃れられるチャンスを。
(『籠釣瓶』あらすじ解説でよく見る、ドルオタがファンサに勘違いのガチ恋して破滅する~の例えにいまいちしっくり来ないのは、少々調子乗ってたとはいえ優秀な商人ではある次郎左衛門が、吉原のルールに沿って身請けを申し込み、後はもう表向きにするばかりだった時点で、もはや「勘違い」云々の段階でなく契約の問題じゃないかと思うからで)
もっと言えば八ツ橋の行動は、搾取されるのに慣れきってしまった若者が、疲れて思考力も判断する気力も失い、傍から見れば実に不合理なのにその環境に居続ける選択をわざわざしてしまうし、何なら周囲のもっともな声にも反発してしまう、DV被害者あるあるにも近いんだよなあ…とさえ。
混ぜっ返しの小悪党な権八に今回、八ツ橋との関係でぞっと生々しい勾配の怖さを感じたのは、今回の七之助さんに、今まで見たどの八ツ橋よりも頼りなげな少女らしさを感じたからでして。
なので愛想尽かしのビリビリ怖い迫力も、恋人への愛情と客への義理の板挟みで必要以上に冷酷な態度を取るしかない花魁の苦しみというより、むしろ、権八や栄之丞に押しつけられた理屈を消化できない動揺のままあの場に立たされ、しかも自分でも薄々分かっている痛いところを店の人々や真っすぐ忠犬の治六に突かれたので余計ヒートアップしてしまい、どんどん加減が分からなくなっていく、年相応の若さと勢いと居た堪れなさのほうを一層感じたのです。
あんな無茶を言う栄之丞と別れまいと必死なのも、「間夫がなければ女郎はやみ」の意気地で心底惚れ抜いているというより、この男とかつて恋人の誓いを交わした事実だけが、今となっては武士の娘だった頃を偲べる唯一の名残で、それを律儀に守り男を養ってやることで辛うじてこの人は、今の自分の自尊心を保たせられるとすがってるんじゃなかろうか、とも。
権八や栄之丞に搾取されるまま、自分の意見を持つ機会もなく自分を救う術も知れずここまで来てしまった八ツ橋の“幼さ”がふっと腑に落ちたとき、見初の場を支配する馥郁とした笑みも、立花屋で次郎左衛門を悠然と歓待する客慣れした様も、実は、強かな計算はしない代わりに先々の計画もまたできない、ひたすら求められる役を律儀に務め上げる彼女の生真面目さ(そして悲しいかな実際できてしまう優秀さ)が為せるわざ、選択肢のない彼女の人生における唯一のプライドに思えてならなくなりました。
そして、勘九郎さん次郎左衛門にもまた、それと同じ質の若さと生真面目さが溢れていて。
そもそも国会図書館デジタル収蔵の初演版を読むと、父治郎兵衛が前妻お清を捨て、再会し殺すまでが10年余り。その間に後妻との間に次郎左衛門が誕生。終盤でお清殺しが15年前と語られるので、次郎左衛門は初期設定として恐らく25歳ぐらいのはず。わあ、若い。
勘三郎さんや吉右衛門さんの次郎左衛門には、それなりにコツコツ地位や声望を積み重ねてきた壮年の男が、ふと脇道に迷っていく怖さがありましたが、勘九郎さんの次郎左衛門に感じたのは、脇道も何も、人生の門口でばったり会ってしまったものへ一心に突き詰めていく青年の危うさでした。
見初の場で、八ツ橋の笑みに撃たれ座り込む次郎左衛門。
あれは果たして本当に「恋」だったのでしょうか。
今まで生きてきた中で最高の美に出会った衝撃は真実だとしても、八ツ橋が去った花道をじとっと見据える瞳に映っていたのは、恋の高揚感というより、強烈な光に照らされ今まで気づかなかった欠落の輪郭がくっきり浮かび、ああそうだ、あれが俺の人生に必要なものだったのだ、あれさえ手に入れれば俺は救われるはずなのだと、青年がアイデンティティの拠り所を(勝手に)決めてしまった瞬間。
立花屋や兵庫屋での勘九郎さんの次郎左衛門は、仲間の前で少々浮かれた顔を見せるとはいえ、全体に静かで羽目を外さず、いかにも遊び方がきれいな旦那の佇まいなんですよね。(贔屓のひが目かもですが、あばたメイクしてても普通にいつものいい男ぶりなので、作中でも実際「あばたさえなければ」の意味が余計強いのではと思えてしまう)
八ツ橋に到達するため、商人として成功した努力と同じく、吉原という場で求められる振る舞いを律儀に学習したのだろうなあと。あくまでも“学習”でしかないけれど。
それは、親判の権八を切れず、起請を交わした栄之丞に尽くし続け、客にはトップ花魁として接する、周囲に求められる役を律儀に務め続ける八ツ橋の生真面目さとも、案外実はよく似ていて。
でも結局、生真面目に習得した粋な旦那の振る舞いも、律儀に務める「仲之町を張る」花魁の顔も、芯からのものではなくて。
次郎左衛門は八ツ橋に救いを求めたが、彼女は当然「弁天」などでなく、他人のそんなものを背負い切れるわけもない、ただ普通の娘だった。
八ツ橋もまた栄之丞に救いを求めていたが、栄之丞にそんな甲斐性があるはずもなく、他人に何かしてやるより、してもらうことを当然に生きてるだけの男だった。
私、勘九郎さん七之助さんが演じる人ならざるもの、もしくは人との境界線上にいるものが、それはもう大好きでして。
笑みひとつで歌舞伎座いっぱいを支配し尽くす八ツ橋も、妖刀に魅入られた重い殺気でズンと客席中を底冷えさせる次郎左衛門も、まさに見たかったお二人で、ああこれは人生狂わす笑みだわ、感情も覚悟も通り越し向こう側へ行ってしまった人の顔だわ、と心の底から震えたのです、が。
しかし、それでもやはり八ツ橋も次郎左衛門も、悲しいくらいにただの人間で。というか、見初の笑みも斬り捨ての殺気も、その凄みに説得力があるからこそ、それ以外の場で二人に感じていた若者らしさに、哀しみがいよいよ増して。
寄る辺のない若者二人が、自分ではない他者に救いを求めるしかなく、でもやはり結局救われるはずなどなく、すれ違って歪んでいった果ての物語。
それは、いま40代のお二人が演じた次郎左衛門と八ツ橋だからこそ、こちら側が感じられた物語なのかもしれません。
きっとお二人が50代60代になったら、また違う次郎左衛門と八ツ橋を見られるんだろうなあ。この先ずっと見続けていくのが楽しみ。
「籠釣瓶」。籠を釣瓶にしても水は貯まらないことの洒落で、「水もたまらぬ」切れ味の妖刀につけられた名。
勘九郎さん次郎左衛門の、空洞の奥に底なしの闇が見えるような瞳と、七之助さん八ツ橋の、震える華奢な肩。
練り上げられた台詞と様式美の向こう側に、水を汲んでも汲んでもざあざあ底が抜けていく籠のように決して満たされなかった二人のやるせない心がポツンと残る、そんな舞台でした。

