ジャングル・ブギ
2024/02/17(Sat)23:38

…が遂に『ブギウギ』に出てきた嬉しさで、『酔いどれ天使』を見返しました。
アニメちびまるこちゃん世代なので、笠置シヅ子さんといえば『買い物ブギ』から知りましたが、動く笠置シヅ子さんをちゃんと初めて見たのはこの映画だったなあ。
改めて見返すと、この映画に映っている1948年当時の闇市などギラギラした混沌と、あのパワフルな歌声とが実にマッチしていて、今週『ブギウギ』ステージ場面の熱狂がまた違う意味で刺さってきますね。物語として必然の場面ではないはずなのに、映画全体の印象づけとしてこれ以上のイメージソングはなく、不可欠に思えるから不思議。

それにしても、「やくざの否定」が主題だと黒澤監督がはっきり語り、それは「やくざ」という社会の病理に対抗する「理性」の重要性を真田医師が語るストレートな台詞にも現れている『酔いどれ天使』において、しかしその主題を突き破ってしまうぐらいに三船敏郎演じるやくざ松永が、転落していく姿さえ含めて強烈に魅力的なことに、久々に見てもやはり惚れ惚れしてしまいました。

この『酔いどれ天使』では、自業自得でもある病に侵され死んでいくやくざを演じた三船と、彼に毒づきながら救えなかった苦い後悔も抱える医師を演じた志村喬ですが、翌年の『静かなる決闘』では、不条理な病と闘う倫理観の強いインテリ青年医師と、彼を暖かく見守る父を、同年の『野良犬』では、戦後派の憤懣への共感と戸惑いの間で揺れる新人刑事と、彼をサポートするベテラン刑事を…と、導かれ・導く関係へ続けて転生しているのも、スターシステムとしてまた何とも言えず好きでして。

そして、続く1950年『醜聞』で、生真面目で熱血漢な画家青江と、彼との関わりの中で遂に正義に目覚めるダメ弁護士蛭田というある種逆転した構図を演じたとき、『酔いどれ天使』にも出てきた街の泥沼が印象的にまた映し出される。

「おい見ろ、おやじ!奇跡が起こったぞ!この薄汚えドブ沼に星が降りている。おい、人生は涙ぐましいな。こんな汚い街にもお星さまが住んでいる。お前みてえなくだらねえ悪党にもお星さまのような娘ができる」

『醜聞』のこの台詞は、酒やギャンブルで買収されてしまう悪徳弁護士蛭田にも、正義が芽生える瞬間がある=星が映る奇跡が起きるラスト逆転劇への布石ですが、ドブ沼の色がどす黒ければ黒いほど星の光を濃く映し出せる、それは奇跡というより悲しいほど切実な必然である意味も含んでいるのでは、と昔から思えてならないのです。

『酔いどれ天使』のラスト、結局やくざは更生できない、「けだものを人間にしようなんて考えがそもそも甘っちょろいんだ」と、自分自身への怒りも含めて叫ぶ真田医師と、松永の遺骨とともにその言葉をじっと聴く傷心の女。2人の前にじっとりと横たわる、死んだ松永の肺のように汚れている泥沼。

それを彷彿とさせる泥沼に『醜聞』では星の光が映り、松永ならぬ青江がそれを見て奇跡だと高らかに叫ぶ。

『酔いどれ天使』『静かなる決闘』『醜聞』は、志村喬と三船2人が立場を変え信条を変えつつ「病」に「理性」で対峙する、自分の中で勝手に黒澤映画“理性”三部作と呼んでいる作品なのですが(そしてこのトライアングルの真ん中に置きたいのが『野良犬』)。その最初である『酔いどれ天使』を久々に見てみて、あまりにもストレートな台詞に現れる熱い理想主義と、しかしそれを空中分解させないタフな真田医師とダンディかつ獰猛な松永の泥臭いコントラストとに、やはり自分の黒澤映画の「好き」はこの辺りに詰まっているなあと、原点を確認したのでした。

そして、上述した『醜聞』の台詞を連載マンガのサブタイトルにするぐらいに共感し愛でている、手塚マンガに通底する「好き」もまた。

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