カムカム再放送第23週
2025/04/29(Tue)19:05

カムカムエブリバディ 第23週「2003-2025」

#108 4月23日(水)


・とうとう最終週…と朗らかな寂しさを噛みしめながら、最後のカムカム感想記事を新規作成する第108回目の夜。

・昨日の回から急に時間が飛んだ今日の冒頭。
空港から電話をかけてくる ひなたがマスクをしていることで、ああこれは今現在と地続きの現実なんだ、と本放送当時の2022年春にはより切迫感を持って伝わる表現だったんですよねえ… と少し懐かしい。

どうやら英語を活かす仕事をしているらしい ひなたの明るい顔。共白髪の大月夫妻が継いでいるらしいディッパーマウスブルースの上品で居心地良い雰囲気。るいは額の傷を気にせず前髪を上げ、ジョーは『カムカム』作中でお馴染みの曲をピアノで作曲している。
そして、いつもどおり朝ドラを見るべくジョーがリモコンのスイッチを押すと、あのOPが始まるという粋な構造。

先週終わりの2003年から、この今現在に至るまで、の十数年を描くと明示する最終週の始まりが、こう余りにもしみじみと幸せな2分弱だったことで、本放送のときも怒涛のラスト週をずっと安心して見られたのは大きかったなあと思い返す。


・あんこのおまじないを聞いたとき、大月ひなたの母親は誰なのか、アニー安子の予感はいよいよ確信に至ったはずで。さらにジョージから、大月ひなたの父親、つまり るいの夫が「ミュージシャン」だと聞き、しかもジャズを演奏すると聞いたとき、安子は何を思ったんだろうか。
生き別れた娘の るいが、自分と同じくたちばなの方法どおりにあんこを作り続けているばかりか、稔さんが「るい」の名に込めた夢のとおり「どこの国の音楽でも自由に聞ける」の傍で生きている。

確かにこの時点で、アニー安子の心はもう限界ぎりぎりに張り詰めていたことが、2周目だと改めて分かる。仕事の責任として大阪のラジオまでは出るとしても、「明日、日本を出て二度と戻らない」と言い張っていたのは、自分でも溢れそうな心を自覚して怖かったのだろうと。

お洒落な赤のコーディネートに身を包み、ハイヒールで堂々と歩くのが似合っているアニーの中に、あの日の傷ついた安子が閉じた扉の前でいまだ立ち尽くしたままだったんですよねえ…。

・思いの外でかいイベントになっていてガチガチに緊張する るいが、ジョーさんに「ピアノひいて」とお願い連呼するのが可愛い。そしてこれ、新婚時のジョーに卑下を禁じた「離婚やで」を除けば、るいがジョーに何かを要求したほぼ初めてのワガママでは?と思うと余計に愛おしい。

また、横に座った ひなたの腕に るいが自然と手を伸ばしてすがったり、桃太郎がお母ちゃんの言葉に「酒の力借りて歌おうとしんとき」と返して笑ったり、成人した子供らと親とがすっかり対等になっている関係性も、すごくリアルで微笑ましいのです。

それはまた、るいが素直に甘えられる存在が今はこんなにも沢山いる証でもあり。
「アメリカのお母さんのために歌う」が、喪失に追われての焦燥感ゆえではなく、もっと力強い今への肯定に根ざすものだからこそ、明日以降の るいさんなんだろうな…と、思う2周目。

・安子を思って歌う るいのために「大阪のお母さん」和子さんを呼んでくれたジョーさんの優しさに泣いていたら、そんなジョーのために車いすの木暮さんを連れてきてくれたトミーの優しさという畳み掛けで、もう優しさの逆マトリョーシカになる。るいを包むジョーの優しさを包むトミーの大きすぎる度量。
というか和子さんの新幹線チケットも、ジョーの事務能力を考えると、それもトミーがやってくれた可能性ですよ…。

・1995年のジョーのプロデビュー(第99回)が、ナイト&デイでの「トミー北沢ジャズセッション」だったので、木暮さんと再会できてたらいいな…とは思ってたんですが、もしかしたらその時点でナイト&デイ支配人も引退していたかもしれず。
だとしたらますます、この会に付き人を使ってでも木暮さんを呼んだトミーの思い入れにちょっと泣く。

母を思って歌う るいのために「ひなたが3つくらいまでは行き来してた」和子さんを呼んだジョー。るいだけでなくジョーにとっても「今日の演奏は特別になる」のを知っていて、木暮さんを呼んだトミー。2つの優しさが合わさって、大月夫妻にとっての大事な”親”である人々が、あの瞬間の目撃者になれたのもまた”奇跡”の一部なんですよねえ…。

・開演前のテーブル。
懐かしい人たちが集まり、好き勝手に「ジャズと野球とコーヒーと洗濯の話」でなぜか盛り上がるテーブル。みんな好き勝手自由に、自分が大事にして生きてきたものを楽しそうにしゃべりながら、なぜか共鳴しているあのテーブルは、『カムカム』という物語そのものかもしれない。
そんな最終週幕開けの風景。


#109 4月24日(木)


・この回の深津絵里さん演じる るいを見るためだけでも、『カムカム』全112回を見る価値がある、見てくださいと断言できるの回。

・今日の堀之内Pの追想記にあったように、とうとう思いが決壊してアニーヒラカワの鎧を脱ぎ捨てた安子の独白、という百年の糸が繋がる山場で、あえてスタジオの安子本人ではなく、それを電波の向こうで聞く るいの表情をじっと追う演出が大正解なんですよ…。
そう、『カムカム』は初めからずっと、ラジオを発信する側でなく、それを聞く側が主体となって紡いできた物語だった、とここで改めて思い至る演出。

突然ラジオから聞こえてきた話の内容に、最初はまさか、いやもしかして、と聞きながら徐々に確信が深まっていき、「るい」という決定打で大きく息とともに事実を飲み込みながら、自分の中の記憶と今聞く母の告白とを擦り合わせ再構築していく、その凄まじい過程を台詞なしの表情だけで語る圧巻の数分。この演技を記録してくれてありがとう『カムカム』。

安子の告白を るいが震えながら全身で受け止め、るいが何もかも理解していく表情と連動するように安子から娘へ向けた祈りと懺悔が溢れ出る。
声だけの安子、表情だけの るい。ラジオのあちらとこちらで離れている2人が、まるで相対するかのように呼応しているんですよね。親子……。

またここで、るいの向こうにぼんやり映るジョーさんの佇まいも、伴奏として素晴らしくて。
ひなたがラジオを聞き始めたとき、るいの緊張をほぐしてあげるためか、ラジオを聞くよう優しく促しているところから、もうナイスアシストですし。
「傷」という単語に、ん?となって傾聴モードに入り、名を呼ばれて るいが震えだしたら、ひたすら るいを気遣い寄り添っているジョーの存在が、るいの表情の横に見えるだけで何と心強いことか。

「お母さん…」と子供のようにおろおろ歩く るいを抱きとめるジョーだけでなく、今すべきはアニーさんを引き止めることだと瞬時に冷静な判断ができる桃太郎も、放送局に電話するのが早いと的確な指示をするトミーも、それらの提案を即実行に移して走る ひなたも、今の るいの傍にはいるのだということが、るいの「ひなたの道」なんですよねえ…。


・稔さんと見た映画の記憶、稔さんとの思い出にだけは嘘をつき通せず、それが最後のトリガーになった安子。
思えば55年前のクリスマスの日、戦争と稔の死という理不尽への怒りや疑問を、日本語ではなく英語という異国語でやっと初めて「Why?」と言語化できたように、今度もまた、長く封じ避けてきた日本語という”異国語”でこそ、数十年胸の底にしまい続けてきた後悔と祈りを言語化できたんだろうなあ。

「義父の財力に頼らず」「ただ、るいと2人、当たりめえの暮らしがしたかっただけ」「もう向き合うことができなんだ」「るいの前から消えることが、るいにしてやれるたった一つの詫び方で、そして祈り方じゃ、そねえ思うた」

恐らくあの頃、安子本人もうまく言葉に出来なかった感情が、数十年を経てようやく言葉になり、るいに届く。「みんな、間違うんです」の涙の中に、安子もいる。

・相手を思い行動したことが通じるとは限らない『善女のパン』な人々のトライアンドエラーを三世代にわたり描いてきた末に、実はその最たる人だった安子を止めることが、この終盤になるんですよねえ…。
安子から始まったひなたの道の願いが、ひなたの顔をして安子へぐるりと還ってくる。いよいよ。


・そういえば本放送でこの回のとき、磯村吟ならぬ浜村淳リスナーの相互さんが、浜村さんとその番組のリスナーだったら鍛え抜かれてるので、この放送を聞いても「何やいろいろあったんやな(涙)」ぐらいの反射速度で聞いてるはず、と言っていて、竹村夫妻のようなリスナーが思い浮かび、ふふっとなった記憶。
まして2周目となると、ひなた先生が描くカムカム世界だったら、ラジオリスナーたちもきっと竹村夫妻的な人ばかりだろうと思える。

・関係者の榊原さんも聞いてない放送だったし、もともと映画のプロモはついでで、アニーという個人の経歴に興味持った番組からのオファーだったとすれば、海千山千のゲストを相手にしてきたろう磯村さんが曲明けには軌道修正してくれてるに違いない。



・冒頭OP前に登場した小川さん。安子を助けてくれたあの親切な小川さんの孫だと話で視聴者には分かるも、ひなたや小川さんは互いにそのことを知らない、この粋な塩梅がとても『カムカム』らしい。

と同時に、2周目だともう一つの可能性も考えたくなりまして。

カムカム英語を「どこかの子連れのお母さんと一緒に」聞いていたという小川さんの父親の話を聞いてから、あの講座テキストを書いた ひなた先生。もしも、祖母から聞いた話を脚色する際に、安子が大阪でお世話になったお家の名をあえてテキスト上では「小川さん」にすることで、その名前も知らない「どこかの子連れのお母さん」の姿に祖母をなぞらえたのだとしたら。

その「子連れのお母さん」が、本当に偶然安子だったか、それとも別の誰かだったかは、小川さんにも ひなたにも分からない。しかしどちらだとしても、小川さんのファミリーストーリーに登場する母子に祖母を重ねることで、あの戦後にきっと大勢いた安子るいのような母子と、それを助けた小川家のような人たち、名もなき”有象無象”をテキストの中に引き込んだのだとしたら、それも素敵な話だと思うのです。
だって、「これは、すべての『私』の物語」なんですから。



#110 4月25日(金)


・2022年も虚無蔵さんがお元気で何よりですのOP前冒頭。
ずっと ひなたを導いてきた虚無蔵さんが、その教えを受け取る側だった ひなたに、次はお前が渡していく番だと背中を押すのが、三世代でバトンをつなげてきた『カムカム』の鮮やかな伴奏になっている。

虚無蔵さんが五十嵐への餞として言った「そなたが鍛錬し、培い身につけたものは、そなたのもの」に、今また更に「その宝は分かち与えるほどに輝きが増す」と続きを付け加えられたのは、一度は道を諦め去った五十嵐が「宝を分かち与える」側として戻ってきた嬉しい経験もあってなのだろうと思うと、余計に沁みるのです。

・そう考えると、第104回でオファー固辞する虚無さんを弟子の ひなた五十嵐が懸命に説得した図は、この回の安子おばあちゃんを必死で追う孫ひなたの予告でもあったんだなあと。
痛みや矜持のため頑なに暗闇から出ない(出られない)人を「眩しい光の中でしか見えぬものがある」と問答無用で引っ張り出すのは、その人から確かに何かを受け継いだ側だという構図。

堪えきれずに過去を告白したものの、やはり娘に合わせる顔はなく、また扉の前から去ってしまう安子。そんな安子を躊躇いなく「おばあちゃん」と呼んで一心に追いかける ひなたは確かに「ひなたの道」の子で、そんな ひなたをサニーサイドで育てたのは るいで、そして、るいがそうできた下地には安子がるいを愛し育てた日々の記憶も確かにあるわけで。

・穏やか宇宙人な夫のジョーさんはもちろん、すくすく明るく育つ娘ひなたの影響もあってお茶目な側面が徐々に解放されていく京都編るいの描写に顕著だったように、親から子へ(それは血縁に限らず疑似も含めて)受け継がれていく有形無形のものだけでなく、子から親へと逆照射で向けられる明るい光も描いてきた『カムカム』。
三世代の大きな流れの中、時に曲がったり表面上は途切れたりしつつも水面下で確かに受け継がれてきたものが、ひなたという一人の子に合流し、そして原点の安子にぐるっと巡って半世紀前と同じ悲劇を二度と繰り返させないよう追いかけてくるのは、見事に物語だなあと思うのです。

安子がたとえ逃げるとしても、捨てたはずの過去からは痛みだけでなく救いも同じく追いかけてきてくれる。物語だから描ける、救いの回帰。


・「何もかも捨てて姿消す」のが娘のためだと安子が思い詰めてしまったのは、時代性と孤立無援状態が作った部分も多々あり、また当時の価値観にもある意味沿っている(実際、稔戦死直後の千吉はそれを勧めてる)身の引き方でしたけど、るいはそんな家の事情から飛び出せたし、ひなたはもう最初からそんな自己犠牲などとは無縁の個人なんですよね。

変えようのない時代や世間から自分のささやかな内面を守るには、自己完結による”逃げ”しかなかった安子の時代から、それはもう必要ないんですよと言える時代まで三代かかってようやく辿り着いた感慨とともに、サニーサイドの子ひなたが走る。


・そして、ここで るいが「そういう人やさかい、私のお母さんは」とぽつり言うことの重さですよ…。
ラジオでの独白を聞いてめでたく誤解が解ける、母はやはり私を愛してくれていたのだと再認識する流れで、親子の再会と和解が起きてくれるわけではない。この諦め怒り突き放すような台詞を一旦重石のように置いた上で、しかし第111回のあの安子とるいの再会を描くに至る『カムカム』の作劇が、改めて好きだ。

るいが、「お母さん自身がもう私に会わへんて決めてる」と半ば確信して仮定するのは、再び消えようとする母の行動に「そういう人」だったと数十年ぶりに改めて痛感しただけでなく、はっきり思い出したあの日の自分の言葉「I hate you」が母を「そういう人」へと追い詰めた一因だったことへの自覚もあるはずで。

だからこそ るいが安子を思って歌うのは、あなたが完璧で素晴らしい母だったからではなく、「そういう人」な部分も含めてあなたをそのまま肯定するのだ、という「I love you」になっていくんですよねえ…。それはまた「I hate you」と母を拒絶した幼い日の自分自身をも許すことであって。
「みんな間違う」、それでもなお、という愛。


・ジョーとトミーが再び奏でる『Rhythm Exchange』。
この印象的な曲が今まで彩ってきた『妖術七変化』の「日本映画史上類を見ない圧巻の立ち回り」、絶品のあんこで一子さんに真剣勝負を挑む るいの回転焼きづくりが自然と思い返され、一子さんが るいのため点てる茶の得難さが一層際立つ、この曲の使い方もしみじみと好き。

・お茶という道を誇り持って歩んできた一子師匠が、その茶を「意味があんのかどうか」と相対化した上で、「意味があんのかないんか分からんことをやる、誰かのことを思てやる、それだけで ええんとちゃう?」と るいにかける言葉の、何と滋味深いことか。
三世代で何度も繰り返してきた『善女のパン』が、軽やかに反転していく。


・本放送時の感想再掲
20220406.png

地元の方ならではの見方というのはとても興味深いし有り難いのは前提として、ただ問題はそれを取り上げ紹介する側が、せめて放送後の余韻が抜けた頃合いではなく、わざわざ直後にこれを紹介したやり方で、この回後半を茶化してネタにしてもいい雰囲気を半ば公式として作っちゃったよなあ…と、今でも思う。(この回に限らずあさイチの受けは、現メンバーの本職もあってか全体に笑いの方向に行きがちなんですが)

なので今回の再放送では、制作統括である堀之内Pの追想記がオーディオコメンタリーのように終始伴走してくれて、とても嬉しかった。2025年春というこのタイミングだけでなく、堀之内Pの解説裏話が聞けたのも今回の再放送は幸せだったなあ。


・ちなみに、安子の逃走に本放送時、真っ先に連想したのは、同じ藤本脚本『平清盛』第18回で雅仁親王が青墓を行くシーンでして。

宮中を飛び出した雅仁親王が、元服前の少年時代に遊びまわった都のアンダーグラウンドによく似た青墓を通り、乳母の手も離し、幼い子供たちの戯れに自分も混じっているうち、義理のひいおばあさんでもある祗園女御=乙前のもとにたどり着き、子供の癇癪のように歌をねだる。
自らが望んではみ出し者でいるかのように嘯きながら、本当は誰にも必要とされない自分への虚しさにひとり打ち震えていた雅仁親王が、自分ですら無視していたその真意を引きずり出されるためには、元服した成年の現在、みずら髪の少年時代、童時代から母に抱かれていた赤子時代へと帰っていくこの母胎回帰のようなプロセスを経て”生まれ直し”をする必要があったんだろうなあ…とストンと腑に落ちる。

なのでアニーが安子に戻るため、安子が生きていた時間を遡っていくかのようにあの虚実の境目をすり抜けていく演出は、やはり藤本脚本に相応しい演出ロジックだったと思うのです。

 


#111 4月28日(月)


・まずは本放送当時の新鮮な感想再掲。
202204071.png

再放送の2周目でも、やはり新鮮に感動するOP前。
ひなた先生の前に座るアシスタントのローレンス氏が、あの声で「A long time ago…」と今日のレッスンを始めた瞬間、ぱーっと視界がひらけて半年間見てきたストーリーの構造が立ち現れる、物語の醍醐味。

この話を見てきた半年間は、虚無蔵さんが言う「分かち与えるほどに輝きを増す宝」を ひなた先生から毎日受け取っていた半年でもあるのだと、また第1回から噛みしめたくなる。

・それにしても、OP明けで2003年へと戻った瞬間、アニー安子おばあちゃんを「もう逃がさへんで」と背負ってずんずん歩いている ひなたは、やはり最高にかっこいいんですよ。
「Choose the sunny side of the street(日向の道を歩いてよ)」
この言葉を、概念としての言葉や気遣いではなく、腕ずくででも「日向の道」へ引っ張ってくる物理的な力技でやってのけるのが、サニーサイドの申し子ひなたなんですよねえ…。三世代の中では最も呑気で単純だった子が、その性質ゆえにこそヒーローになる展開に、2周目でも胸が熱くなる。

・ササプロの奈々さんとトミーが探してくれたトランペッター大月錠一郎の音源。それにジョーがピアノを添えてセッションを始めるのは、かつて「僕にさよならを言うてる」と表現したトランペットが、再びジョーに握手をしに来てくれたようで。
過去との決別や塗り直しではなく、新たな共鳴が始まるのが、音楽としてとても美しいし、またその過去と現在のジョー、トミーのセッションに、るいの歌声が加わったところで、ひなたが安子を背負ってやって来るのも、『カムカム』が紡いできた百年の集約としてぴたりハマる構図が美しい。
全ての人に特別なサニーサイドが流れる中で、半世紀越しに伝わる「I love you」。


・実は本放送当時の ひなた編中盤ごろ、安子とるいの再会は勿論あったらいけど必須ではないと個人的には思っていまして。
それは、再会さえすれば万事解決めでたしになるという親子愛絶対主義ロマンへの懸念もあったからなんですが、そこは蓋を開ければやはり藤本脚本で、再会そのもので人生が解決するという順番ではなく、るいも安子も各々の人生を築いてきたからこそ必然のように合流するという順番だったのは、この物語の流れとして最高の解を見せてもらえたなあと思うのです。

「本名、安子・ローズウッドはその日、るい、そして るいの築いた家族と夜遅くまで語り合いました」
渡米してローズウッドの姓で生きてきた安子と、大月の家族を築いてきた るい。半世紀かけて培ってきたそれぞれ個人の人生が交錯しての「I love you」だったことが、余韻とともに伝わるナレーション。

ジョーさんの「るいを産んでくださって、ありがとうございます」も、伴奏として優しく響いてくる。

・そしてまた、アニー安子と大人るいだけでなく、あの日絶望した顔で視聴者の前から去った若安子と小さい るいをサニーサイドで笑顔の再会を描いてくれたことも、本当にありがたかった。”両方”の安子るいが救われたことで、見てきたこちらの心も軽くなる。
本放送のとき相互さんと、演技とはいえあの拒絶のシーンで終わるのは精神的にキツそうだから、ちゃんと和解の場面を演じて上書きできるのは、子役さんへのアフターケアとしても良かったですよねえ…としみじみ語り合ったのを思い出します。
そういう優しさも、『カムカム』の好きなところ。


・再来日し、今度はハイヒールでなくスニーカーで故郷の街を歩く安子。最初の頃のような幼馴染として、また今はもう稔さんの思い出を共有できる数少ない相手として、並んで歩く勇ちゃんと安子が微笑ましい。

『サムライベースボール』という映画が『カムカム』中で担っていた役割は、単純に時代劇がハリウッドに認められてめでたいという話ではなく、稔さんの夢「自由に行き来できる」に掛かっていたんですよねえ…。
日本の演奏家がジャズを奏でるように、米国のクリエイターも時代劇を創る。どこか誰かの愛するものが、その生まれた国だけにとどまらず、互いに等しく行ったり来たりする自由な世界。

それはまた安子自身も、「もう二度と日本には来ない」などと自分を縛るのでなく、自由に行き来できるよう自分を許すことでもあり。木漏れ日の穏やかな道が、ようやく「日向の道」へも繋がった。

・本放送時の感想再掲。

202204072.png

202204073.png

第6回で手紙を交わす安子と稔が歌うように声を重ねた「ひなたの道を歩けば、きっと人生は輝くよ」が、木漏れ日に透けていく演出が清々しい。百年の悲しみも喜びもサニーサイドに溶けていく。

・ジョーの病気が治ってまたトランペットを吹く奇跡は起きなくても、音源は残っていて、特別な舞台で共鳴することはできる。 神社で安子が必死で願った稔さんが戻ってくる奇跡は起きなかったけれど、安子からるい、るいから ひなたへ受け継がれていくものの中で、彼の夢も確かに息づいていた。
やはり『カムカム』は、苦くて優しいお伽噺だなあと思うのです。お伽噺だから描ける、「みんな間違う」人間への讃歌。
 



#112 4月29日(火)

・大団円、という言葉にふさわしい最終回。
物語として実質的な最終回だったのは昨日の第111回で、今日の第112回は15分まるごと使って百年分の幸せなカーテンコールだなあ。百年の先へ続く余韻。

橘ー雉真ー大月の主役たちの家族はもちろん、脇役まで含めた数多の人々が、手を差し伸べ助け合ったり、お互い知らずにすれ違っていたりで織りなした三代百年の物語のラストに、「日々鍛錬」を経てこの物語の書き手になり得た ひなたが、幼いころ言えなかった言葉をようやく言えるという、ささやかな個人の願いを拾い上げて幕を下ろすのが、締めくくり方として大好きなのです。

るいの52年かかった「I love you」と同じく、ひなたの49年かかった「Let’s enjoy kaiten-yaki together」も、伝えたかった言葉をようやく相手に届けられた話なんですよね。
言語であれ何であれ、個人の意思が別の個人へ届き伝わるというコミュニケーションの原初的な喜びが、ずっと貫かれていて。

小さな物語が積み重なって大きな流れを形成するのと同時に、大きな流れがちっぽけな個人へ回帰していくのも、等しく描く。個人では覆し得ないものもある時代の中で、自分が選んだ日向の道を「That's life 」=「わたしの物語」と言えるまでの物語。
受け継ぎ繋いでいく人々の切実な営みを「大きな流れ」として描いた『ちりとてちん』を、「おかしな人たちの陽気な道中はまだまだ続いていきます」で明るく締めくくったときから、ずっと変わらない藤本脚本らしさを味わえる締め方でした。


・そんな今日の回で駆け足に紹介されていく一人ひとりの後日譚が、道や場所を変えたりしつつも、それぞれのサニーサイドで充実しているというのは、やはり「それでも人生は続いてく」の明るい語り方だなあ。

京都の大月では桃太郎と結婚した花菜が楽しそうに回転焼きを焼き、岡山のディッパーマウスブルースはジョーとるいが受け継ぐ。
また、自分は父の黍之丞を壊してないか悩みながらも時代に合った工夫をしてシリーズを生き延びさせた二代目モモケンが、オーディションで見つけた「私の左近」蘭丸に次の黍之丞を託し、それが全く違う新しい”黍之丞”になっているのも、血縁に限らない継承のエピソードになっていて。

女は家業を継がなくていい、男は跡取りになって当然という1925年当時の”普通”から始まった百年が、親から継いだものが身を助けることもあるけど無理して継がなくたっていい、店は一代で閉じてもいいし誰かが継いでくれてもいい、血縁に関係なく繋がっていくものがある、という風通しよい場所まで辿り着くのは、やはり希望の物語だったと思うのです。

・個人的にちょっとホロリとしたのは、小夜ちゃんが高校を辞めて「町の子供たちに勉強を教える小さな塾」を始めたというくだり。
学生時代から幾つも習い事をして優秀だった小夜ちゃん。英語塾に行くのは経済的に無理だったちびひなたにとって、塾に通ってることも、その成果をちゃんと身につけていることも含め、憧れを身にまとう存在だったんですよね。(そこで小夜ちゃん個人に対して劣等感を抱かないのも、ひなたの良さだった)
その小夜ちゃんが、わざわざ町の子供たちのための小さな塾を開くというのは、かつての ひなたのような子供もきっと通いやすい場になるんだろうなと容易に想像できるんですよ。

毎日焼かれる回転焼きや、いつでも始められるラジオ講座など、日常の中で身近に存在するありふれたものの積み重ねを描いてきた『カムカム』において、小夜ちゃんが塾で子供らに教える勉強も、きっとそういう存在の一つになったのだろうと嬉しくなる。

・そしてまた、本放送のときも美術さんの細かい仕事に感動した、あのしおりに記される横須賀「たちばな」の創業話。
闇市で金太さんに出会った少年が…という後日譚が沁み入るのは、物語としてのロングパス構造の見事さという以上に、物語で描かれていなかった歳月にも、あの少年が安子の「しっかり生きられえよ」の願いどおり元気に生きていた事実への嬉しさでして。

三世代にわたるリフレインで、どうか次の世代は少しでも良き生をという縦の祈りが繋いできた『カムカム』において、そんな次世代に向けてだけでなく、人生でほんの少し関わった(そして恐らく二度と会わない)人もどうか幸せであってほしいという素朴な横の祈りが、あの少年のエピソードに集約されている。

・蘭丸主演の新・黍之丞シリーズが始まるのは2006年だから、ちょうどそのリアタイ世代にとって、2022年時点に ひなたが関わっているリメイク版『KIBINOJO』は胸熱だろうな…とか、ジョージが京都へ移住すると知らせてるのが2011年なので、桃太郎が監督として甲子園に行った「10年後」が2021年大会だとすれば、コロナによる休止を経ての大会で勇大叔父さんの感慨はひとしおだったろうな…とか、ひなたが語っていく二十年余の情報一つ一つに愛おしさが込められている。
もちろんそこに、藤本脚本おなじみ田中の百年を駆ける物語の終着点も添えて。

・あと、少し前の回の感想でも書きましたけど、二代目モモケンと すみれさん結婚のめでたさを、この駆け足展開の中でもしっかり入れた ひなた先生には、自分の仕事の中で堂々と推しの結婚を祝うオタクの幸せと意地を見て、ふふっとなりますね。


・この2025年春に、同じく作中で2025年春を迎えた『カムカム』最終回の時間軸が現実と重なり、百年のその先へと続く「日向の道」を示しながら軽やかに閉じる虚実皮膜の再放送ラスト。
稔さんの願い「どこの国とも自由に行き来できる」が日だまりの中で具現化していた『カムカム』世界線の明るい2025年に対し、こちら側の2025年が直面している現実との隔たりを痛感せざるを得ないとしても、やはりそれでも、『カムカム』という物語の”祈り”の価値が損なわれることは決してないと改めて思うのです。遠く果てしない理想を描くことこそが物語に許された特権だし、藤本脚本のそういうところを愛していますから。

202204083.png

本放送のとき描いたこの感想を2周目でもやはり抱いたし、だからこそ今この時期に再放送で半年間『カムカム』を味わい返せたのは、心から良かったと言える。

・というわけで、もう一つまとめとして本放送時の感想再掲。

20220408.png

202204082.png

藤本脚本のここが好きなんだよなあああ…と呻くしかなくなるものが存分に味わえた『カムカム』は、やはり幸せなドラマでした。


・藤本脚本は2周目が本番!ということで、軽い気持ちで書き始めた再放送感想。回を追うごとにどんどんテキスト量が多くなっていって、自分でも笑っちゃうぐらい、改めて藤本脚本のどこが好きかを再確認する今回の再放送だったなあと。ほぼ毎日、その日の放送についていって感想を書けたのも、この百年を半年間ひなたとともに走り抜けたような満足。

心地よいゴールの感慨とともに、また次の藤本脚本の新作が見られるのをゆっくり楽しみに待っていきます。野辺へ出てまいりますと春先のことで、空にはひばりがさえずってる ひなたの道で。

 

 

< 前の記事 ▼一覧 後の記事 >
Copyright(C) 2008 - 2026 baserCMS Users Community All rights Reserved. baserCMS : Based Website Development Project  CakePHP(tm) : Rapid Development Framework