カムカムエヴリバディ 第16週「1983」
#073 3月5日(水)
・半年で百年を走り抜ける『カムカム』において、その週タイトルの年数が1年単独のみ、つまり1年をじっくり描く週というのは、やはり特別なわけでして。
安子編では、安子とロバートの出会い、定一さんのサニーサイド熱唱で締めくくられた第6週「1948」。るい編では、るいとジョーの出会い、ジョーのトランペットが奏でるサニーサイド、地蔵盆の第10週「1962」。
そして、ひなた編では今週が「1983」。迷える ひなたがおぼろげながら自分のやりたいことを見つけるまでの、ゆっくり成長記。
・条映コンテストに出ると言い出した ひなたに、「あんた、もう高3やで」「ひなたのために言うてんの」と真っ当な小言を返す るいに、しみじみしてしまう。
”母に捨てられた娘”というアイデンティティから逃れるべく17歳で故郷を飛び出し、様々な経験を経てようやく私の幸せを勝手に決めるなと抵抗できるようになり、回転焼き屋開店時にはギャンブラーだと一子さんに呆れられるほど振れ幅のでかい るいが、ここに来て見せるあまりにも”普通”のお母ちゃんらしい姿に、ジョーさんと家族を築いてきた日々の年輪が見えるんですよ。
また、もともとはそんなギャンブラー気質の るいさんだからこそ、親として一応常識的なことを言いながらも、ひなたの「ちょっとはみ出す感じ」を愛おしんで、最終的には応援に回れるんだろうなあ。そして、そんな るいの背中を押すのは、家族の細やかな感情をいつも掬い上げてくれるジョーさんであって。
・ジョーさんにとって、あのコンテスト出場と優勝は、上京後の暗転に繋がっていく辛い記憶でもあるはずなんですけど、それを今は「挑戦するのって、わくわくすること」と肯定的に思い返せていることにも、傷の上に重ねてきた歳月を感じる。ラジオ英語講座を穏やかに聞けるになった るいと同じく。
「心配事は玄関に置いて」るいとジョーが今は子供たちと歩いている ひなたの道。 でも、失ったものを完全に置いてきたわけでなく、その暖かな記憶の核だけはちゃんとサニーサイドへ携えてきているんですよね…。
・全面的にサポートしてくれるいっちゃんや小夜ちゃんを見ると、小学生ひなた週でジョーさんが言っていたとおり、良い友達がいることが ひなたの宝物なんだなあと、その慧眼を思う。
そして、1週間で挫折して両親の助けを無駄にしてしまったラジオ英語講座のときとは違い、今回はちゃんと本選までたどり着いた ひなたに、マイペースながらも成長の跡が見えるのです。
一子さんの厳しい指導にへこたれながらも、何とか本選当日までやり抜いたあたり、やはり時代劇に関わることが ひなたにとって「こうと決めたことは命懸けでやり遂げる」侍の道なのだと、よく分かる。
・あんこのはみ出た回転焼きに、「ちょっとはみ出すぐれえが味があろうが」と算太が開き直った失敗作の大福を、畳の上をパタパタ歩く足袋のアップに、お気に入りの雉真足袋でヒョイッと軽快に畳の上でも踊っていた杵太郎さんを思い出しちゃう回でもあったなあ。
平和なサニーサイドの子ひなたに色濃く現れている、まだその名前も存在も知らない「橘」の人々。
#074 3月6日(木)
・2周目で見ると、このコンテストで ひなたが見せた自由演技こそが、この後の ひなたらしさを全て物語っていたことに、可笑しさと愛おしさが増す。
回転焼きをめぐる一件が相当ムカついていたのは確かとはいえ、よりによって「お姫様」になるためのミスコンで、ロマンチックな愛の告白を文字通りぶった斬っちゃう ひなたは、やはり誰かに結婚で幸せにしてもらうヒロインではなく、自分自身こそが「侍」になりたい子なんですよ…。
・英語という新しい世界へ導いてくれた稔とそのまま結ばれた祖母安子、少なくとも最初はコンテスト優勝という勲章で求婚するジョーを受け入れた母るい、という前世代を思うと、いくら芝居とはいえ、告白してくる侍を「誰がお前なんかについていくかーー!」と絶叫してぶった斬る ひなたは、何気に前の時代と違うサニーサイドを歩み始めている三世代目なんだよなあ。
・それにしても、初めてのお芝居実演で、咄嗟に差し向かいの侍から刀を奪える ひなたも凄いし、想定外にも程がある芝居にちゃんと合わせて迫真の斬られ演技してくれる五十嵐も偉い。
偶然とはいえ ひなたの「侍」になりたい願望をちゃんと引き出せたあたり、このときの五十嵐は ひなたとしっかり”共鳴”もしている。
(ひなたと五十嵐の関係は、恋人というよりも同じ深度の沼にいるオタク同士というのが相応しいと思っていたので、最終的に人生のパートナーにはならなかったあの結末は案外しっくり来たのです)
・にわか仕込みとはいえ、芝居がそれなりに様になっていた ひなた。
咄嗟に顔を隠すときも袖で顔を覆う所作が自然にできているあたり、やはりジョーさんが感心しているとおり、「だてに『黍之丞』シリーズ見続けてへん」の効用だろうなあ。
みなもと太郎先生が太秦へ出入りしてモブのバイトをしていた高校時代、子供の頃から時代劇映画と講談本を浴びて、時代劇独特の話し方や所作なども自然に理解できていたので、誰も素人さんだとは信じなかった、という話を思い出す。
・回転焼き屋大月を初めて訪れた虚無蔵さんが、店に貼られた『隠れ里』ポスターを凝視するシーン、2周目だと余計にぐっと来ますね。
この数年前にも同じく回転焼きを買いに来た二代目モモケンが、あのポスターに”運命”を感じて一大決心をしたように、虚無蔵さんもまた、コンテストでふと興味を持って誘いに来た時代劇大好き娘の家に、まさかあのポスターが貼られていて、余計に何かを感じたんじゃなかろうか。
ナレーションで語られる「運命(destiny)」は、ひなたにとってのものだけでなく。
・とりあえず今日の回は、スクリーンのこちら側にいよいよ虚無蔵さんが降臨した記念すべき回なので、再放送でもきゃっきゃします。
#075 3月7日(金)
・普段から着流しに時代劇言葉を貫き通す虚無蔵さんを、当然ながら「妙な人」といぶかしむ るいお母ちゃんに対し、ひなたのほうは最初から「そら、映画村の人やからやん」と当たり前に受け入れていたことに気づく2周目。
虚無蔵さんの時代劇言葉にもすぐ「かたじけない」と合わせ、「寺子屋通い」「御前芸比べ」など独特の言い換えもちゃんと翻訳できる ひなたの、この順応性高さと意外なツッコミ役適性が、虚無蔵をはじめ濃ゆい人ばかりの映画村編へとスムーズに作品の空気自体を接続していっていたんだなあ。
・バイト初日からは肝心の虚無蔵さんが傍におらず、何をすべきかも不明な宙ぶらりん状態で部屋に放置されているのに、うわーあの作品を撮影してる、あれは裏方さんかーとひとり楽しく盛り上がれて、お茶でも入れよかな~と自ら動けるひなた、やはりすばらしく心臓が強いんですよ…。
回転焼きを焼く手伝いをしたことはなくとも、店でのお茶出しを子供の頃から見ていて自然と身についたものがうかがえる。
・虚無蔵さんに「おひな」呼びされ始めると同時に ひなたが新しい世界へ入るのは、るいがナイト&デイという新しい世界に迷い込んだと同時に「サッチモちゃん」呼びをもらうのと同じ構図ですね。
誰にどんな名で呼ばれるか、自ら何と名乗りを上げるか、名付けという行為が言霊レベルで呪いにも祝福にもなっていく藤本脚本の仕掛けが、ひなた編でも大きな緒になっている。
そして、安子編の「あんこ」、るい編の「サッチモ」は、それぞれヒロインの深いアイデンティティに関わるものだったのに対し、ひなた編の「おひな」=時代劇風あだ名は、ひなたにとっては確かにお父ちゃんの膝でテレビを見た温かく切実な記憶に関わるものとはいえ、普通に”趣味”の範疇でしかないのも事実というあたり、やはり平和な証だ。
・そういえば本放送の頃、侍に憧れ続け「時代劇への愛」を叫ぶ ひなたが、映画村での撮影システムをよく知らず、斬られ役常連・虚無蔵さんの顔も分からなかった”無知”をもって、お前の「好き」はその程度かと批判的な感想を割と見かけたけど、『カムカム』でこの後に描かれていくものと併せ考えると、そんな感想が飛び出てくるリアル自体が作品内と連動していて、興味深い現象だったなあと思うのです。
そもそも、テレビの映像が今より荒く、家庭用録画機器もなく、同好の士とマニアックな情報を交換できるネット環境もない時代に、もし若干18歳の(しかもお小遣いも少ないだろう)ひなたがドラマ撮影の仕組みを詳しく知り、虚無蔵さんのようなモブの顔と名前まで認知できているとしたら、それはもう83年当時で言えば、長じて研究者になれるレベルの立派なマニアなはずで。
(手塚マンガオタクなので、自分が生まれる前の70~80年代オタク雑誌や会誌など読む機会がよくありますけど、今では研究本やネットで簡単に分かる情報すら、当時は誌上で行う公式への質問回答や読者同士の交流会で必死に集めてやっと知れていた苦労が、よく分かる)
そんなマニアたちの情熱がジャンルを牽引していくのは事実であっても、そのマニアックさが知識合戦へと発展し、ライトなファンへの見下しと排他的な空気を生み出したとき、ジャンルがタコツボ化してジャンルそのものが衰退してしまうというのは、これはもう様々な分野でオタクなら誰しも一度や二度は見ているだろう、あるあるの現象。
この回で虚無蔵さんが「このままでは時代劇は滅び去る」と言う危機感は、まさにそんなジャンルのタコツボ化と無縁ではないんですよね。実際にリアルの時代劇は、その時その時で熱烈なファンを生み出す作品は作られ続けるものの、ライトなファン=新規層は広く取り込めないうち、特定の層のみを相手にしたものへと後退してしまうわけで。
世代でないアラカンの名もよく知っていて自ら制作側にまで飛び込む五十嵐のようなマニアだけでなく、実は ひなたのように気軽にさくっと作品を見ているだけの”有象無象”のライトファンも大勢いて、初めてジャンルの裾野は支えられることを、作り手の内側に長年いる虚無蔵さんこそがよく理解しているはず。
そして、そんなライトな層を取り込む入口が、作品も含めじりじり減っていることへの危機感も。
「父の仕事を横で見」てきた経験や、新選組などの歴史知識を有する他の立派な参加者たちではなく、ひなたに虚無蔵さんが注目して声をかけたのは、ただあっけらかんと時代劇と映画村を「大好き」と言い切る単純な言葉だけを持って、コンテストに応募するほどの熱意を抱ける彼女の軽やかさに、希望を見たんじゃなかろうか。
この週の後半で語られる「いつも同じ」を作り続けることへの青い反発と熱烈な肯定、そして難しさ、この後の展開で五十嵐が”時代劇熱”のあまり陥ってしまう意固地さと、ひなたが示す順応性との対比を考えると、この時点でリアルの感想界ではその程度の「好き」かと言われていた ひなたこそが、作中では虚無蔵さんにその時代劇愛を認められて「時代劇を救ってほしい」とまで言われ、実際その言葉を支えにラストまで踏ん張っていくのは、リアルと物語との重なりとしてなかなか面白い現象だったなあと、これもまた2周目の感慨。
・ミニモニブレーメンの音楽演奏や、『ちりとてちん』の落語もそうでしたが、藤本作品の登場人物たちは、何かを好きになるとしても(少なくとも序盤は)決してマニアではないんですよね。むしろ、ライトな知識で気軽に「好き」になり、やってみようかなと思えちゃう主人公たちを通し、その文化芸能が日常生活のすぐ隣に当たり前の存在としてあり、だからこそちっぽけな心をも救えることの有り難み、尊さを描くのが藤本脚本で。
そして『カムカム』では、たった一度の映画鑑賞で心を動かされつつも細かい情報は知らなかったジョーと、推しのデビュー年に生まれたことを誇り、とても詳しい吉右衛門ちゃんとの「そないなことも知らんと、ようもあないな滂沱の涙流してモモケンの死を悼めたな」問答で、そこまで情報に通じてないとしても「好き」を名乗ってもええじゃないかという話は、既に出ている。
・それにしても、一度は初代モモケンの相手役「左近」として大抜擢され「条映の秘蔵っ子」とまで宣伝された虚無蔵さんが、20年たった今、その映画の話を ひなたに持ち出され殺陣を褒められても、自らを「名もなき有象無象」と言うのは、2周目でも胸がぎゅっとなるなあ。
ひなたの成長と共に るいとジョーが過去の傷を塗り替えていく ひなた編で、虚無蔵さんもまた自らの傷を上書きしていく前世代の主人公の一人なんですよねえ…。「有象無象」という言葉が、20年前の痛みに自らを押し込める響きではなく、誇りの意味へ転じていくまでの物語。
・五十嵐の嵐は、嵐寛寿郎の嵐。だからアラカンの50倍だと言い張る五十嵐の自己紹介はなかなか勇ましいですが、前の週に吉之丞が一恵ちゃんを「百恵の百分の一」とからかっていたことを思い返すと、まだモモケンの百分の一しか回転焼きを買えない男がモモケンを超えると息巻いている若さが、じわじわくる。
この自己紹介を続けていると、そのうち、アラカンの50倍でなくお前が50人集まってやっとアラカン1人前やねんぞと言われそうだ。
#076 3月10日(月)
・ポスターなどでちらちら見えていた『破天荒将軍』の御本人が、ついに登場回。
分かりやすく某有名タイトルのおもしろパロディなんですけど、破天荒将軍の決め台詞が「世を治めんがため、天荒を破る」と、妙にカッコいいのはずるい。これは ひなたも思わず固まるぐらい感動する。
・初登場時から るいに叩き起こされていたねぼすけの ひなたが、夏休みにちゃんと毎朝起きて映画村に通えるんだから、好きの力は偉大だなあ。
そして、榊原さんと話せて【虚無蔵さんに見込まれた子】と認知されたのは大きいにしても、特に何かマンツーマンで指導されたわけでもなさそうなまま、いつの間にか休憩所に溶け込んで名前も覚えられ、お茶くみや書類運びなどの雑事も頼まれている ひなた、やはり人間として強い。
・本放送当時、ツイッターで相互さんとも話してたのですが、虚無蔵さんが ひなたの”時代劇愛”に何らかの光を見出して期待したのは確かだとしても、その後の正社員時代も含めて基本的に放任主義な姿勢を見ると、「時代劇を救え」という壮大かつ抽象的な目標はもしかして、面白い子を見つけてスカウトした勢いで口走ったもので、つまり育て方含めた方針は案外ノープランだったんじゃなかろうか疑惑。
だとしたら虚無蔵さんも相当におもしれー男だし、やはりこの出会いは双方にとって運命(destiny)なんですよ…。
・それにしても、2周目で見ても、このあたりの榊原さんは「普通」さが貴重で眩しい。時代劇そのまんまの虚無蔵さんだの、アラカンの五十倍と豪語する五十嵐だの、さらには「不機嫌な女優」すみれさんまで出てきて、未熟な高校生らしい ひなたの素っ頓狂さすら大人しく見える濃い人々が揃いつつあるので、淡々と「普通」で爽やかなやり取りができる榊原さんの存在感が、清涼剤になっている。
また、回が進むうち、このメンバーに振り回される中で「普通」を保てていること自体が実は相当なお人なんでは?と、当然のことがだんだん見えてくるのも、榊原さんという人の楽しいところなのです。
・憧れのおゆみちゃん、もといすみれさんを見て舞い上がり、バイトも忘れて「サインもろてもいいですか?」とひなたが聞いちゃうのは、子供時代に初めて生身で会った大スターが、完璧ファンサの二代目モモケンだったものだから、あの優しさが偉大なスターの標準だと刻み込まれちゃったのも大きいんでしょうね。まして、黍之丞シリーズのおゆみちゃんは、可愛くて気立ての良い最高のヒロインだったようだし。
「いいわよ」とにっこり応じるまで、一瞬間のある すみれさんの複雑な表情。この後の展開で一回吹っ切れて以降のすみれさんは、うちいり蕎麦屋でも赤螺家の皆さんからのサインお願いに即笑顔で応じているので、この回の時点ではまだプライドと挫折との狭間で揺れ動いていたのが、よく分かる。
そして、映画村のショーで「客寄せパンダ」になることを嫌がる すみれさんを見ると、現役で人気シリーズを背負う大スターでありながら、サイン会でショー仕立ての殺陣まで披露してくれた二代目モモケンの人格者っぷりと時代劇への責任感を改めて思うし、また本来は「けったい侍」の軽妙さがニンだった二代目にとって、ファンを間近に感じられるショーの場は案外懐かしくも楽しい場だったのかな…とも考える。
・ジョーさんが静かに笑って言う「もう、あれから20年たったんや」は、見つめるポスターの映画『隠れ里』そのものだけでなく、そのポスターの裏に隠れたままの優勝者サインという痛みにも重ねられているわけで。
第73回でコンテスト出場した記憶を淡々と肯定的に思い出せていたのに続き、ジョーさんは過去を”過去”として徐々に「諦めたというか吹っ切れた(第93回)」の境地に入り始めている。そんなジョーさんを見つめる るいの顔が、穏やかに大月のお父ちゃんお母ちゃんとして生きる今現在を肯定しながらも、やはりまだ諦め切れていない寂しさ切なさに満ちているんですよねえ。
ひなた編でもまだ静かに続いている、るいとジョーの物語。
#077 3月11日(火)
・『カムカム』において、安子編終盤における不幸のピタゴラ装置に、これぞ藤本脚本!と悲鳴を上げる人もいれば、ひなた編の今日のような展開で、これぞ藤本脚本!!と快哉を叫ぶ人もいる。本放送時もそれがくっきり別れるTLを見ていて思いましたが、脚本家としてそんな多作な方でもないのに、人によってここまで「これぞ藤本脚本」イメージが違うのは、やはり面白い作家だなあと思うのです。
そして私は、今日のように一生懸命なアホ(※ちりとてちん)の愛おしさが色濃い回にこそ、「藤本脚本でしか摂取できぬものがある…」と腕組み満足するほう。
・事もあろうに、これから自分が仕事をする場所で監督らを前に、「同じセットで同じ場所で同じことが起きる」TV時代劇のマンネリと粗製乱造ぶりを声高に批判してしまう五十嵐。
多分あれですね、ジョーのチャンバラに即応じて殺陣も完コピできるほど大好きなはずなのに、『隠れ里』を「駄作」と言っちゃう吉右衛門ちゃんと同じく、時代劇を愛して作り手側に入れたからこそ、まだまだ作品制作の芯にまでは関われない下っ端な自分の若い苛立ちと、外部からの揶揄「いつも同じ」へのもどかしい痛みを同一化してしまう、厄介で愛すべきオタクだ。
・そんなふうに、作り手側に入りたてゆえ「いつも同じ」に青臭く苛立つ五十嵐と同じく、イチ視聴者側だからこそ「いつも同じ」を愛し熱狂するひなたもまた、その「いつも同じ」を長く維持していくのが実はどれほど大変なことか、まだ本当には理解できていないんだろうなあ。
「毎回毎回同じような展開」の偉大なるマンネリが太く維持されていて初めて、『おゆみ命がけ』のような若い監督の実験回を紛れ込ませることもできる、という事実は、その偉大なるマンネリが消えたとき、初めて気づかれることも多い。
そんな「特殊な回」が突き刺さって台詞再現までできる ひなたと五十嵐は、やはり同じ深度の沼にいるオタク同士だ。
・制作側の都合が多分に反映された「同じセットで同じ場所」というテレビ時代劇の作り方は、そのまま朝ドラのセット撮影にも当てはまるわけで、あの再現劇とギャラリー自体が朝ドラの”お約束”への自己言及的パロディだった気もする。
その「いつも同じ」にこそ、「私は夢中やった」と愛を叫ぶのが三代目ヒロインひなたであることの意義。
「何でおゆみが座布団背負うて歩いてたんか、未だによう分からん」と作り手たち自身が笑っちゃうほど、モチーフ先行で偏りのある作劇だったのだろう『おゆみ命がけ』回。それでも、『隠れ里』がジョーさんを揺り動かしたのと同じく、誰かの心にはきっと突き刺さるし、そのフィクションの登場人物たちに本気でハラハラした ひなたの気持ちは間違いなく本物で。
一見トンチキなこの回に、藤本脚本の「物語」観が色濃く現れているように思うのです。
・五十嵐とひなたの再現劇でふと現場が和んでしまったのは、【純粋な若者たちの熱さに大人たちが昔の熱意を思い出して感化される】…という側面もありましょうが、アホがアホなこと言うてるもんやからピリつくのが何やアホらしなったアホの大渋滞、というのも大きいんだろうなあ。つまり『ちりとてちん』における哀れ合戦。一生懸命なアホにこそ筆が乗る藤本脚本節。
・そしてこの回、すみれさんの棒読み「きゃ~」も相当クセになりますが、助監督畑野さんが ひなた五十嵐の寸劇に入れていく絶妙なツッコミと、「つまみ出し」で2人をお見送りする華麗な両腕さばきも、とても好き。
・第16週金曜日だったこの回と、第17週月曜日の第78回が、話としてはワンセットだと思うので、このまま明日、連続で見られる再放送の構成は嬉しいなあ。
第10週金曜日の第47回と第11週月曜日の第48回が、再放送では火水と連続して見たら、サニーサイドと地蔵盆の繋がりがより深く感じられたように、今回の再放送では偶然ながら週またぎ構成になることで、各話の繋がりを改めて味わえるのが楽しい。

