カムカムエヴリバディ 第15週「1976-1983」
#068 2月26日(水)
・るいが安子と別れてから20年以上。ずっと英語学習から離れていた(自ら遠ざけていた)るいが娘のため久々にその存在を思い出したとき、英語講座は昔と変わらずラジオでずっと放送されていた。
『カムカム』にいよいよ英語が戻ってきた静かな山場であるとともに、常時制作放送されているからこそ、誰がいつ始めようと思い立っても、またいつ戻ってきても視聴可能な教育コンテンツを提供できるという、公共放送の意義もさりげなく語っている場面。
これを、来年も英語講座が継続されることを最終回で安堵していた ひなた先生がテキストに書いていると思うと、また余計にぐっと来るのです。
・そして、いつでも誰でも気軽に出入りできるという描き方に、やはり『カムカム』のラジオ講座は『ちりとてちん』の常打ち小屋なのだなあと。
『ちりとてちん』はその常打ち小屋が形として出来上がるまでの物語だったけど、『カムカム』はもう既にあったラジオ講座が、一度は戦争で途絶えながらも三世代にわたって存在し続け、いつでも出入り自由な場所だからこそ、それぞれの時代と人生を映し出していく物語になる。
・月曜から土曜の毎朝15分の積み重ねで毎週1時間半勉強できると ひなたを諭す るいの言葉が、毎朝15分の朝ドラにそのまま被ってくるところも、これ2周目で雪衣さんの言葉を聞いた上でだと、より沁みるなあ。
『カムカム』制作発表時に藤本さんがコメントされていた「小さな積み重ねがやがてダイナミックな展開をもたらすのは、英語学習も連続テレビ小説も同じ」が、このあたりから徐々に輪郭を帯び始めてくる。
・それにしても、朝から勉強と聞いて「かっ…かっ…」と倒れ込み、「そんな殺生な」と悲鳴を上げる ひなたが微笑ましい。ここ、ジョーも るいも中の人が素で笑ってませんかね。るいに両手を引っ張って起こされた ひなたがそのまま繋いだ手をぶんぶん振り回す仕草も、温かく自然な”家族”らしさで。
後の回で、川栄ひなたのポニーテールを るいが後ろから触る仕草と併せて、母子の関係性がさりげなく伝わるとても好きな細かい演技。
・お寝坊の娘を6時45分の講座に合わせて起こすジョーお父ちゃん。ラジオ体操に引き続き、安子がカムカム英語を受講しながら夢見た”普通の生活”のひとつ、「朝6時台に娘を起こす」をしているんですよねえ…。
るい自身は全く知らない、安子が娘るいに与えたかった日常を大月家がひとつずつ叶えていくのと並行して、るいが安子のことを思い出す顔もまた柔らかくなっている。
・そして、お父ちゃんの「ギブ・ミー・チョコレート」を ひなたが「何?それ」と聞くさりげない会話に、ジョーさんが過去の辛い経験を娘に話していないことも覗えて。
音楽を失った痛みを一切外に出していないのと同じく、これもまた ひなたのサニーサイドを守る「侍」ジョーなりの闘いだと思うのです。
・ところで、「パンダか、大福かなと思って」はアドリブなのか、脚本にあったのかが未だに気になっている。アドリブなら、第66回の「お湯のことです」に匹敵するオダジョ氏のジョーさん解釈に拍手だし、もし脚本からある台詞なら、ハンコの模様にさえあんこのお菓子を選ぶジョーに、るいへの深い愛を思うじゃないですか…。
・ひなたが英語を勉強する動機は、ビリー少年と話したい!という淡い恋心なんですけど、英語ペラペラ妄想の中で、早朝からラジオで英語を勉強してる私すごくないですか!?と言っている時点で、もう既にB子らしさが色濃いんですよね。
集団の中で周囲から見た評価を気にしている間は事を成し遂げられないというのが、藤本脚本世界の厳しく優しいルールであって。この時点のひなたにとっての英語が、周囲の目も気にせず瓶集めに奔走するほどの存在=時代劇とまだ並べていないことが、ちゃんと現れている。
ようやくビリーの名前を知れた嬉しさと、自由に話せる小夜ちゃんへの気後れ混じった羨ましさと、まだ一言も英語を話せない気恥ずかしさ、もどかしさ。ないまぜになったラストのひなたの顔が、明日の回への予感も含んでいて絶妙。
#069 2月27日(木)
・「日本の夏といえば」尽くしだった第63回に続き、1976年小学生の愉快な日常を15分に詰め込んだ今日の回。
こうして見ると、TVのコント番組、バラエティ、アニメ、アイドル歌手、マンガ雑誌、そして時代劇…と、子供でも手の届くエンタメが種々様々たっぷりある時代になったのが、よく分かる。それらを存分に吸収して育つ ひなたの幸せな子供時代。
やると決めたラジオ講座を結局サボってしまい、ビリーと話せるチャンスを逸してしまった ひなたの幼さと悔しさが何ともほろ苦いんですが、この40年近く前、ほぼ唯一の自発的な欲求だったお洒落すらもパーマ禁止令で叶わなかった安子にとって、不意に手の届くところに現れたラジオ英語講座という新しい世界がどれほど切実なものだったかを思い返すと、英語講座以外の誘惑が多いことさえも平和で幸せな証に思えるのです。
ダメな主人公のやらかし定番【真面目に努力しようとしてもつい怠けてしまう】が、また別の意味を持ってくる三世代の物語。
・そしてこの回の70年代要素は2周目の頭で見ると、自分が育った年代への懐かしさと親しみが爆発して ひなた先生の筆が迸った回ですね…と微笑ましくもなり。
・外国へ行って行方しれずの母を探しに海を越える少年マルコの物語『母をたずねて三千里』を、ひなたと一緒に展開を気にして鼻歌にも加わる。
ひなたが聞くのをやめても、ラジオ英語講座を自分ひとりのためにつけ、穏やかな顔で聴き続ける。
どちらも、ひなたがいなければ無かったはずの るいの姿で。
何も知らないひなたの言動が るいの心を少しずつ解いていく描写に、親から子への一方向だけでなく、子から親へ注がれるものも当然あるのだという、別人格としての親と子との幸福な関係がふと立ち現れてくるのが、ちびひなた編(るい編からのグラデーション期でもある)の好きなところの一つ。
・地球儀を持ってきてアメリカはどこか無邪気に聞く ひなたに返答を少しためらうのも、場所を指した るいが「ちょっと遠いね」と笑う横顔を心配そうに見つめるのも、ジョーが るいを慮る優しさだなあ。
「私が守る」の言葉どおり、実際今のジョーを物理的に守っているのは るいですけど、ジョーが るいの心を守っている面も大きいことが、こういう細かなカットでずっと描かれ続けているんですよね。
・自分を”捨てた”母が行ったという国。もうすぐ手の届くはずだった夢の場所。「ちょっと遠いね」の沈黙に、まだ癒え切ってはいない2人の傷と、互いのそれに決して踏み越まず静かに支え合ってきた夫婦の在り方が垣間見える。
・ひなたの元気な「ええ歌はいつ歌うても、ええ歌なんやで」。商売敵の『およげ!たいやきくん』を「ええ歌やな」と評していたジョーさんにも通じる感性。(ここで子供相手に「一理ある」と返してくれる吉右衛門ちゃんも、粋なおっちゃんだ)
2周目で改めて気づくのは、すぐ歌って踊りだす ひなたにつられるように、るいお母ちゃんが歌う描写も生活の中で徐々に増えていくこと。今日の回のキャンディーズや名作劇場、百恵ちゃんに限らず、ちびひなたがよく歌う子として描かれているのは、子供らしさや世相を表す要素であるとともに、やがて るいが人前で歌うようになる終盤へ繋がっていく布石でもあったんだなあと。
ダンスホールが大好きだった杵太郎、ダンサーだった算太、そして初めて聞いた英語を「音楽みたい」と感じて夢中になった安子という、橘家から継いだ音楽好きの血が、ジョーさんのリズム感を継いだ ひなたに引き出されていく。それがやがて、稔さんの「どこの国の音楽でも…」の願いに合流していくんですねえ…。
・ところで、『ガラスの仮面』連載が始まったのは1975年12月。つまり、ちょうど ひなたがモモケンのサイン会のため空き瓶集めに奔走しているときなので、マヤが『椿姫』チケットのため出前120軒をやり遂げたあのエピが、ひなたには初回からどストライクで突き刺さった可能性もあるんじゃなかろうか。
そして、こんな序盤からもう「マヤと亜弓さん」の関係性に注目しているあたり、やはり ひなたは少女マンガ大好きとはいえ、イコール恋愛重視姿勢ではないんだよなあ…と、後々までの一貫性に納得しています。
#070 2月28日(金)
・クスッと笑えるお茶目な「お母ちゃん見参!」からの「子供は子供でいろんなこと抱えてるもんや」「何で分かるん?」「お母ちゃんも昔、子供やったから」。
何度見ても切なくて温かくなる、親子の語らい。
朝ドラの主人公子役時代では、この ちびひなた編と『てるてる家族』冬子と和ちゃんの出会いから別れ編が特に好きなんですが、それは、子供には子供なりの理屈がちゃんとあって、大人の理屈が及ばない世界を構築していることを、虚構の中で丁寧に描いているからなんですよね。少し懐かしいジュブナイルの味わいがある。
そんなジュブナイルとしての ちびひなた編と、るい編ラストとを架橋して収束させるこれらの台詞も、最初から主人公ひなたの”頼もしいお母ちゃん”としてでなく、ここまでに至る子供時代から青春時代までずっと見てきた るいの台詞だからこそ、さらに特別な趣が重なってくる。
・つい苛立ってひどいことを言ってしまった娘を母が川べりまで迎えに行く。
あの日のるいが安子にしたかったこと、あの日の安子に るいがしてほしかったことを、今るいが ひなたにしてあげられる幸せな上書き。
かつて、取り返しのつかないことで笑顔を失ってしまった子供だった るいが、「子供は子供でいろんなこと抱えてるもんや」と笑って穏やかに言えるのは、自分が子供として生きていた小さな世界での痛みは決して忘れず、しかしその小さな世界の外を今の子供に指し示してあげられる、優しい大人の姿なんですよねえ…。
・黍之丞の決め台詞で声をかける るいも、緊張して帰ってきて謝る娘に「苦しゅうない」「近う寄れ」と時代劇ごっこできっかけ作ってくれるジョーも、ひなたに何が響くか分かって接している、良い親だ。
「なれるかな?お父さんに」「なれるかな… お母さんに」と瑞々しい不安を抱えていた第62回が、もう遠い昔のよう。
・そして、親子の間で何かしら共通言語があるとケンカしても和解がスムーズだなあと微笑ましく見つつ、その幸せな共通言語たる”英語”で拒絶されたからこそ、どん底の安子にとって最後の一撃になってしまったすれ違いの悲劇も、やはりふと思い出してしまう。
言い換えれば、ひなたがどれだけ失敗して子供なりの葛藤や悲しみを抱えても、安子のような致命的ダメージには至らないだろうと安心して見られることに、百年の物語三代目の感慨を思うのです。
・苛立って回転焼きに当たってしまったのは、初恋が終わったショックだけでなく、お母ちゃんが買ってくれた回転焼き2個分のテキスト、お父ちゃんが作ってくれた出席カードを「全部、無駄にしてしもた」ことの不甲斐なさ申し訳なさも大きかった ひなたは、やはりサニーサイドで育てられた子だなあ。
そんな ひなたが「何やっても続かへん」と自己嫌悪に陥って泣くのと同じ回に、憧れの人モモケンまさかの来店があり、空き瓶を1,000円分集め切ってサイン会行く目標をやり遂げたからこそモモケンが回転焼きを買いに来てくれ、産気づいた母を病院に送ってくれるミラクルにまで繋がったんだよ、と ひなたに告げてくれる終わり方が、構成として優しい。
飽きっぽい ひなの丞だって、志を失わなければきっと侍になれるはず、と小さな予感を軽やかに含んで終わる ちびひなた編。
藤本脚本といえば、名前と芸(もしくは家)を巡る父子の相克描写がもう絶品だと思っているで、ここで二代目モモケンが「黍之丞」を脱いだ生身のいちスターとして舞い降りてきて、ついに来たぞ来たぞと期待が高まったんですよねえ…。
子供の ひなたに優しく、サインにも気さくに応じる人格者として登場しながら、父の遺作をファンの前で「駄作」と言ってしまう一言に、二代目モモケンの抱える葛藤がさりげなくフックとして仕込まれている。
そして2周目で見ると、モモケンが回転焼きを買いに来てくれたこの小さな奇跡も、物語として ちびひなたに舞い降りた優しい締めくくりというだけでなく、モモケンのほうにも団五郎時代からのドラマがあっての必然だったことに、改めて唸るのです。
感想幕間。
木曜日分の堀之内Pの追想記 が興味深かったのでメモリンク。
「正確な位置関係にこだわるのではなく、物語を豊かにするため、リアルのイメージを借りながら、架空の街を再構築しています」…という、当たり前と言えばあまりにも当たり前すぎるお話。
これは別に『カムカム』のようなオリジナル脚本に限らず、実在人物モデル主人公の物語で縁の土地に行きロケしている朝ドラや、大河でも以前からよくあることですし、もっと言えば、それこそ軍記物語の昔から、地理空間を圧縮して物語としての純度を高めることで虚構中のリアリティを構築するというのは、古典以来のフィクションのお約束なわけですけど、ここでわざわざPがこれを言わなきゃいけないのが、何にでも考察という名のツッコミが入る最近のフィクション感想界隈なんだろうなあ…。
終盤、ひなたから逃げようとする(逃げざるを得なかった)安子のシーンで、どう見てもアニー平川が安子に戻っていくため過去を辿っていく作劇上必要な演出だったものが、実際の走行距離という解釈でしつこく弄られていた野暮さを思い出す。
あくまでも人の手が作った虚構という前提に立った上で、より物語を滋味深く味わう補助線として細かいところを見ていく「考察」と、最初から”笑い”のネタを探すつもりで物語の流れも無視して細かな点を突き回す「野暮なツッコミ」とは全く別のものですけど、140文字と画像でインパクトあるツイをした者勝ちなところもあるSNSだと結構、後者と前者の混同が起きがちな気が。
藤本さんの数少ない表に出た時の発言や、また『カムカム』制作陣のインタビューなど見ると、ただひたすら、百年の大きな時代変遷を安子・るい・ひなたという虚構の人物・家族に託して愛情持って描こうとしていただけで、むしろ一部ネット記事や目立つ感想発信者(プロ含む)が当時声高に言っていた「伏線回収」「考察」の声には、やや戸惑っていた感も受けるんですよね。
なので、『カムカム』は確かにSNS受けしていたドラマではあるけれど、別の意味でSNSとは相性の悪い作品でもあったよなあ…としみじみ思い返している、『ちりとてちん』からの藤本脚本好き。
#071 3月3日(月)
・一気に時が進んで、ひなたが本役の川栄さんになり、前回無事に産まれた桃太郎ちゃんも野球ができる歳に。そしてラストにはいよいよ「無愛想な男」も登場。
本放送のときは木曜日だったこの回が、再放送では偶然ながら区切りよく月曜に来たので、余計に新章幕開け回の感が強くなっている。
・安子編始まりはラジオ放送の開始を宣言するマイクロフォン。るい編始まりは緊迫の太平洋戦争開戦を告げるラジオ。そして、本役ひなた編始まりは、過去の厳しい時代を描きながらもあくまでドラマである『おしん』を映すテレビというのが、ひなたが生きる時代をよく表しているなあ。
・「侍」のように生きたいとぼんやりした願望は持ちながらも、具体的な夢も目標も特になく、自分が何をしたいのかも分からない。
そんな”平凡”な主人公の”平凡”な17歳の悩みさえも、10代で初恋を貫くか親の決めた結婚かの分岐点に立たされた安子や、心を固く閉ざし決然と故郷を飛び出していった17歳のるいを思うと、平和の証に思えるのです。
サニーサイドの穏やかな歩み。
・千差万別な幼馴染たちの進路に触発されて ひなたがこんなにもぐるぐると悩めるのは、生まれた街で大好きな人に囲まれて生きたいという、それ以外の人生など考えもしなかった14歳の安子に比べて、情報もモデルも選択肢も豊富にある現れなんですよね。
祖父稔さんの願い「どこの国の音楽でも自由に聞ける、自由に行き来できる」の「自由」が、世代を超えて違う形で孫世代の ひなたたちに叶っている。どこにだって行けるし、何にだってなれる「自由」があるからこそ、発生する迷いと悩み。
・再放送並走している『カーネーション』が今ちょうど1985年で、糸子のところにやって来るアホボンたちの軽薄さと明るさが時代の空気として描かれているので、ひなたがのほほんと生きているのはこのあたりなんだなーと思うと、相互参照として分かりやすい。
(そして、こんな時代にあえて時代劇俳優を目指し、回転焼き1個が唯一の楽しみという生活を選んだのが文ちゃんだと思うと、あの一途さと裏返しの意固地さもよく理解できる)
・そういえば、京都ではベリーと呼ばんといて!と言っていた一子さんですけど、この回では娘たちの前で るいを堂々「サッチモ」呼びしていたんだなあ。
ひなたも いっちゃんも案外、子供のときから音として自然に聞き慣れすぎていたから、一子が言う「さっちも」が何を表すのか考えもしなかったのか…と思うと、ちょっと可笑しい。
・短大行きたがる娘に「遊んで留年するのがオチ」と叱るベリーの話に、昔を懐かしんで笑う るいとジョー。
しかし、そもそもベリーが留年するほど遊んでしまったのは誰のおかげなのか考えると、るいがようやく穏やかにラジオ英語講座を聴けるようになったのと同じく、ジョーもここで少しずつ大阪のトランペッター時代をにこやかに思い出せるようになっているのがうかがえる。
誤解したまま別れた母。吹けなくなったトランペット。
そんな深い喪失を埋めて取り戻す劇的な和解や奇跡(恐らく大抵の人の人生には訪れないもの)がなくとも、最初に思っていたのと違う形ででも、人は幸せになれるのだという救いを描けるのは、ゆるやかな日常をじっくり描ける長尺の物語ならではですね。
賑やかな ひなた編がいよいよ始まっている横で、通奏低音のように続いている るいとジョーの物語。
・相変わらず子供の頃のようにいらんこと言うものの、ひなたが反論しなければしないで「張り合いないな」と言うあたりに、吉之丞と ひなたの関係性がよく分かる。
ガキ大将だった吉之丞が、年相応の落ち着きをだんだん身につけていくうち、ひなた編後半ではいつの間にかしっかり者の立場に収まっていた図、地元に残って家を継ぐ子供の造形として割とリアリティがあったよなあ…と思う地方民。
#072 3月4日(火)
・安子と るいであったり、るいとジョーであったり、はたまた脇役のどなたかであったり…と、その時その時で様々な意味が重ねられては切なく響いてきた『アルデバラン』の歌詞「君と私は仲良くなれるかな」に、ここまで笑えてしまうOP入りがあったろうか。
ひなたと「無愛想な男」文ちゃん、この時点では「仲良くなれる」どころじゃない最悪の出会い。
・改めて見ると文ちゃん、「無愛想」を通り越してもはや無礼者なんですが、感じ悪さもここまで貫けばいっそ可笑しいという、そのすっとぼけた塩梅が本郷奏多さんの巧さだなあ。ナイスキャスティング。
・この失礼すぎる客に対し、背中向けての密かにちかえもん的ツッコミ顔芸しつつも、すぐ振り返っての接客自体は営業スマイルでやり切った ひなたは、やはり客商売の家の子だなあと思う。えらい。今まで手伝いしてこなかったツケも半分あるとはいえ。
この場面に限らず、ひなたの長所というか根本的なたくましさには、時代の明るさだけでなく、毎日不特定多数のお客さんが出入りする家で育った子のタフさも感じるのです。
・ラジオ講座の継続視聴をしていないと、いざというとき英語が出てこないとビリーの件で思い知らされ、今度は、ふだんから家業のお手伝いしていないと、いざというとき注文に応えられないと無愛想な客に突きつけられ。
後に、虚無蔵さんの「日々鍛錬せよ」の教えが沁みるまでの布石、というか反省材料も、着々と打たれていきますね…。
・「ずっと、このままでいてたい」「あの家で暮らしてたい」と ひなたが願うのは、卒業就職という節目を前にしたモラトリアム願望もありますが、やはり家族大好きだからこそ出る言葉でもある。
18歳のいかにも平凡な現実逃避の言葉にも、ちゃんと親になれるか不安がっていた るいとジョーの言葉を思い出して感慨深くなってしまうのは、三世代の物語を見守ってきたゆえ。
14歳の安子がぼんやり抱いていた「大好きな町で、大好きな人たちと暮らす日々がいつまでも続けばいい」願望と、ひなたの「ずっとこのまま」「あの家で暮らしてたい」願望は、よく似ているようで、しかし嫁に行くか婿とって家を継ぐか以外にほぼ選択肢がなかった戦前の安子にとってはそんな願望こそ現実そのものだったのに対し、昭和末期のひなたの場合は、無数にある選択肢のまず手前なんだよなあ。
・『おしん』を見ている大月家の朝ご飯が、味噌汁とトーストという組み合わせなのが、日常の家庭料理として妙にリアリティあって、とても好きなのです。桃ちゃんが小学生になり、るいさんも忙しくなってきている今、朝ご飯も手持ちの食材で組み合わせてます、という感じがよく出ていて。そんな中でも、美味しそうに家族そろって食べている仲良し大月家。
・『おしん』といえば、放送当時のテレビ局におしん宛で米が送られてきたという有名なエピソード。昔聞いたときは、そんな熱烈な視聴者を生み出す凄いドラマだったんだなあぐらいに受け取ってましたけど、『カムカム』でこう、元戦災孤児のジョーさんが「まだ7つやのに…」と本気で気の毒がっているのを見ると、この1983年当時、子供にとって厳しい時代を覚えていて他人事じゃない世代がまだまだ多かったことも、改めて肌感覚として理解できる。
「18年間いっぺんも手伝わへんかった」ひなたに、るいが言うべきことは言いつつも基本的に優しいのは、やはり子供が子供らしく生きていられる時代の幸せをよく分かっているからなんだろうなあ。
「暗闇でしか見えぬものがある」…と、顔出し看板の穴から見た視界で、遂に目標となり得る告知ポスターを発見するという、三代の中で最もトンチキな転換点を迎えるヒロイン。
しかしこのカラーで走り始める ひなた編が、やがて るいと安子のシリアスな物語をぐいっと引き寄せて着地点に到達させるだけの胆力を秘めているのが、また『カムカム』の面白さだと思うのです。


