カムカム再放送第13週
2025/02/19(Wed)00:22

カムカムエヴリバディ 第13週「1964-1965」

#058 2月12日(水)


・本放送のときは、12週ラスト真っ暗な「終わりや」を引きずって重たい週の幕開けに思えたけど、2周目でこうして見ると、決して悲劇のほうへ折れまいとする力強さが端々に見えて、静かな転換点の回でもあったことに感を深くする。
安子編ラストと被るリフレインが数々ありながら、安子編ラストと同じ暗転を繰り返すまいとする、強い祈り。

・音が重要な役割を持つ『カムカム』なので、音が消える演出というのは、例えば稔さん戦死の知らせを安子が聞いた第20回、安子がるいに拒絶される第38回という、よほどの時で。
なので、ジョーに別れを告げられた るいの回想が無音という演出には、トランペットを失ったジョーと同じく、るいの心からもサニーサイドが消えた絶望感が伝わり、胸が痛む。
そして同じ回、今度はその無音の瞬間が、平助さんの話を聞いてジョーのもとへ勢いよく飛び出す るいにも僅かにかかることで、その喪われた音ごと るいが取り戻しに走るようにも見えるのです。もはや額の傷が露わになっても気にしない るいの、迷いなき走り。

・名前の本当の由来を勝手に推察されて勝手にサッチモちゃんとあだ名つけられるのも、かつて自分を捨てた母の思い出話を「会いたいんやな」と解釈されるのも、プロポーズの返事をする前に勝手に竹村夫妻へ結婚の挨拶されるのも、結果的に今までうまく転んできた、だからこそジョーの察しのよさに対し受け身がちの姿勢だった るい。
そんなジョーの先走りグセが暴走しての「僕とおったらあかん」「不幸にしたくない」に対し、ここで初めて決然と「何が私の幸せか、勝手に決めんといて」と立ち上がる るいの怒りと抵抗ですよ…。

・おはぎの小さな商いでは「雉真の孫」にふさわしい教育は無理だと哀れんだ千吉。娘を置いて商いに出る安子という”母親”への疑問と戸惑いを幼い るいにぶつけてしまった雪衣。本当の名前の由来も含め、繊細な部分までは理解し切れてなかった勇おじさん。そして苦闘と自責の果てに、自分が消えることこそ「るいのため」なのだと思い込んでしまった安子。
母を含め周囲の大人たちが繰り返す「あなたのため」に翻弄され傷ついた少女るいが、十数年を経てようやく言えた「何が私の幸せか、勝手に決めんといて」の叫びの、何と力強いことか。

・人の「幸せ」を決めるなというのは、「不幸」もまた勝手に決めつけるなという叫びも当然含んでいて。
ここでジョーの言うとおりになんかせず、ジョーと生きる決断をしたこの後の るいの人生そのものが、やがて最終週で再会した安子に、あなたの娘である私の人生は決して”不幸”などではなかったと胸を張って言う「I love you」になるんだよなあ…。


・少し話はずれるけど、特に登場人物への単なる”感想”を超えたジャッジが喧しい朝ドラという媒体において、主人公に「何が私の幸せか勝手に決めんといて」と叫ばせ、しかも後半の展開で主人公が歩むのが、決してその喧しい層が納得するような”成功”人生ではなかったの、なかなかロックだったなあと2周目でも思う。

・しかも作中設定で言うと、幼い頃は自分の家がちょっと変わっていると自覚し、周囲にからかわれたこともあった ひなたが、長じてこのテキストを執筆し、母るいの青春時代にこの台詞を書いているんですよ。何が幸せかを他人に決められたくないのは、ひなたも同じだったはずだ。閑話休題。


・幼いなりに抱えた葛藤で母に「I hate you」と言ってしまった るいだからこそ、今ジョーが言う「僕とおったらあかん」も「不幸にしたくない」も、全て「I love you」の言い換えだと受け止められたんだろうなあ。
そして、失意の中で扉を閉じた人にとって、そのまま引き下がられるのもまた辛いのだということを、かつて扉を閉じたるい自身がよく知っている。

ジョーに部屋を追い出され、襖をぴしゃり閉められた後から、るいの顔がぎゅっと変わるんですよね。店を訪ねてきたベリーに「諦めへんて決めた」と言い切る るいの笑顔も、平助さんに寂しそうな笑顔だと気遣われていた頃と明らかに違う。物静かな透明感はそのままに、でも安子譲りの頑固さが沸々と内側から煮えて始めている。
ああ、そして明日はついに第59回だ。


・それにしても、目の前に転がってきた東京デビューの栄誉を蹴り飛ばせるぐらい、ジョーのため本気で怒れるトミーさんの極太矢印感情は相変わらずですが、ジョーのほうもまた、誰にも会いたくないと取っていた宿にトミーがいざ訪ねてきたら、病気の件を正直に明かしているので、やはりあのコンテストでの”共鳴”は、ジョーにとっても同じぐらい最高で特別な体験だったろうと思うのです。

このとき、こんなにも心底「トランペッター大月錠一郎」の行方を案じていたトミーなら、そりゃジョーが呼んだら期待に胸膨らませて岡山まで飛んでくるはずだよ…と第98回を思い返し、今からほろりとしています。



#059 2月13日(木)


・本放送の頃、当時まだあった夜11時枠のBS再放送で毎晩実況していたツイッター相互さんが、この回放送日だけは、後半から不意にツイが止まり、そのまま終わっても10分ほど沈黙されていたのをしみじみと思い出している。(その後、2人で幸せな涙を流しつつリプを送り合った)

・いつもは流行りの歌謡曲がかかっていた竹村クリーニング店のラジオに、今日は『On the Sunny side of the Street』が流れる。そして、同じときに同じ曲を宿で聞いているジョー。
安子編のとき、ともに英語基礎講座を聴く岡山の安子と大阪の稔を通し、同じ時間に同じ放送を聞いて繋がる意義が描かれていたラジオの特性が、るいとジョーにもリフレインしてくる。

ここで磯村さんが言う、ジャズがビートルズにやや押され気味の存在になってきているという64年のご時世も、また効いてますね。それは、安子と稔がラジオの英語講座を聴いていた41年当時、2人を結びつけた英語が少し肩身の狭いものになりつつあったのとも少しよく似ていて。

それでも、リアルな黒澤映画に押されぎみのなか作られたモモケン畢生の時代劇がジョーの心を揺さぶったり、ビートルズ人気に押されぎみでもあえてDJがかけたジャズが るいを走らせたりと、決して世の主流ではないものが届くべき人に届いて刺さり、さざ波を起こしていく描写が、『カムカム』はとても優しい。

・三世代での意図的な重ね方は『カムカム』の寓話的な特色ですが、月夜に帰りかける稔を追いかけ「あなたと、ひなたの道を歩いていきたい」ときっぱり告げた安子、 昼間の海で暗闇だと絶望するジョーを抱きしめ「あなたと2人で、ひなたの道を歩いていきたい」と誓う るいという、この重ね方は、とりわけ感慨深くなります。
ここまで強くなった るいの中に、安子が確かに息づいている。

・後に第93回で「もう死のうかなあと思った」とジョーが述懐するのが、あの海へ入っていく瞬間そのときだったのか…というと、それはもはや本人にさえ分からないことだと思いますが、確かなのはジョーにとってあの海辺は、るいとサニーサイドを歌い、夢の在り処アメリカと繋がっていた、「ひなたの道」へのかけらが残る場所であったこと。
それは、安子にとっての旭川河川敷が、稔との思い出が詰まった場所だったのと同じく。
あのとき旭川へフラフラと向かった安子も、ロバートが来なければジョーと同じように川の中へ入っていった可能性がやはりあったのだと今更ながら示唆されるわけで、だからこそ、るいがここでジョーを暗闇から繋ぎ止めて引き上げたことには、ジョーひとりを救ったこと以上の意味があると思うのです。

るいとジョー。どちらもあの日の安子であり、幼い日の るいであり。世代を跨ぎあえて繰り返されていた数々の安子編リフレインが、それでもここで反転していったのは、るいやジョー自身の積み重ねもあるし、安子のときはなかった周囲の人々の暖かな手助けのおかげでもある。
子が親を超えていくのは、前の世代の苦しみと失敗を次の世代へ継がせまいと願う、祈りを込めた百年の物語だからだなあと、改めて。

・なので『カムカム』は、藤本脚本の系譜としてはやはり『平清盛』の朝ドラ版なのだろうと。一門が滅びていく結末を、滅びの美学としてでなく、清盛のはるかな夢が血筋も時代も超えて引き継がれていく物語として描いた『平清盛』と同様、安子編の一見悲劇だった結末も、安子が るいに与えたものを通して静かに反転と再生をしていく。

・旅館にるいが着いたとき、ラジオで磯村氏が紹介しているのは『東京五輪音頭』。 終戦から19年、ようやく海外渡航が自由化されたという話がうっすら聞こえているんですよね。『いだてん』好きとしては、あの終盤、主義も人種も超えてぐっちゃぐちゃに入り乱れる閉会式を思い出さずにはいられないので、るいの名前に込められた夢は、もうすぐそこまで来ているよ…と言いたくなる。


・そして、この回のテキストを書いている ひなた先生、うわーお母ちゃんカッコええやんヒーローやん!わーんお父ちゃん死ななくてよかった~~!えっトミーさんめっちゃいい人すぎん?と、ものすごく盛り上がりながら筆が迸っていそうで、とても微笑ましい。

 



#060 2月14日(金)


・るいとジョー、若者2人の旅立ちを見送る竹村夫妻と木暮マスター。血の繋がらない大人たちの餞が温かい心機一転回。
このとき5人が希望を込め話していた「いつかトランペットが吹ける日」は結局、文字通りには訪れなかったけど、それでもこのときの るいとジョーにとって、心から信じていると励まされ旅立てたことが、その後どれほど支えになったかと。

・この時点でも、ひなた編できっと何か意味を持つに違いないと楽しみだった『隠れ里』のポスター(裏にジョーのサイン入り)、実際ひなたの人生どん底の場面で大きな役割を果たしたわけですが、この”裏表”という仕組みも効いていたなあと2周目で改めて思う。

安子編では主軸だったのに、るい大阪編では全く話に出なくなっていた甘いあんこ。しかし、決して物語から消えたわけではなく、厚い前髪に覆い隠された るいの額の傷と同じく実はずっとそこに存在し続けていて、るいが傷を見せられる大切な人を得たとき、あんこもまた、あの懐かしいおまじないとともに再びひょっこり顔を出した。
同じように るい大阪編の主軸だったジャズも、ここからしばらくは出てこないとしても、決して消えてしまったわけではないんですよね。これからずっと ひなた編の間、『隠れ里』ポスターの裏でひっそりと次の出番を待ち続ける。

しかしそれはまた、この後の期間ずっとジョーさんの内側には、トランペットと音楽を失った「暗闇」が、まるで伏流水のようにずっと迸り続けていたことも意味しているんですが。第93回で子供たちに話せるまで、ずっと。
るいの額の傷がずっと消えなかったように、『隠れ里』ポスターの裏にくっきり刻まれたままだったジョーの痛み。

・なので、本放送のとき強かった「(分かりやすい形で)働かない」外見をもってジョーさんを揶揄したり叩いていた一部感想には、人の心がないなーと今でも思う。感想は自由とはいえ、これだけはさすがに。

・本放送の頃は、「暗闇」に一度は迷い込んで死にかけたジョーが、またこんな元のふわふわ宇宙人の顔を見せられるまで回復して…と泣けていたけど、第93回のあの告白を見た後の2周目だと、るいの横で一見のんびり安心しているこの表情だって、今もこの後もずっと「トランペットの音が遠ざかる」残酷な現実と闘い続けながら、鉄の意志で保っているものなんだよなあ…と、余計に沁みる。

・ひなた編ジョーさんは、この少し後るいに言われた「なってあげて、この子の大好きなお父さんに」を全力で守り通していくわけですけど、この第60回の時点でも既に、【るいの心の解きほぐした宇宙人】な自分を るいのため全力で守っているように見えるのです。

…というか、第57回突然の「お前」呼びから第59回で洗濯物を窓の外に放り投げるまで、偽悪的で乱暴な自分の荒れ方を、それ自体はそのとき切実な「仮の姿」だったとはいえ、二度とあれに近接すまいと固く心に定めていそうな、後半ジョーお父ちゃんの佇まい。


・新婚、新天地、夫は病気療養中…という状態で、仕事を探す るい。
ここでるいが回転焼き屋開業というギャンブラーな道を選ぶことこそ、京都での生活がるいにとって、決して【働かない夫を妻の稼ぎで養う】という細うで繁盛記的なものではなく、他ならぬ自分の人生にとって必要な生き直し過程だった証だし、ジョーさんだからその人生に伴走できたとも言えるんですよね。

もし、るいが単純にジョーさんのため「だけ」に働くとしたら、経験値豊富なクリーニング屋を選ぶのが最も手っ取り早かったはず。でもそれをせず、母の記憶と深く結びつく あんこに関わる商いをあえて選び、ジョーもそれが るいのアイデンティティ再構築に関わるきつい作業だと知っているから「しんどくならへん?」と慮る。
海で るいが「2人で」歩きたいと言い、ジョーもそれに応えて暗闇から引き返した「ひなたの道」が、ここから始まっていくんですねえ…。

・幼い頃、大阪で母と「2人で」お菓子屋さんをやっていたとポツリ呟く るいの話し方が、前に地蔵盆でジョーに初めて母に「捨てられた」話をしたときとそっくりで。でも、回想の中で幼いるい目線のあの小さな家の風景は暖かく、るいがもう一度あれをやってみようと思うには十分の強度がある。
るいにとって大阪時代の記憶が、事故の怖さだけでなく、安子が精いっぱい守ろうとした母子の楽しい時間も確かに残っていたと分かり、第1部から見ている側としては感無量なんですよ。

・病気のジョーを守ることも、自分のために母の記憶と向き合うことも、どちらも諦めない るいの姿勢は、ある意味では、るいの母であることも、たちばなの娘としておはぎを作り続けることも諦めず、両者が一体化していった安子ともよく似ていて。そして、安子と違って るいはそれが可能となる時代に生きている、百年の物語のちょうど中間地点。

・『カムカム』作中で久々に響いたあんこ炊きのおまじない。
これからの生活がかかってるはずの鍋を真剣に見つめながら、どこか子供のように楽しげな るいの顔と、初めて聞く「はっ!」の掛け声にびくっとしつつガスを消したり、あんこを手渡したり、るいの回転焼き作りを黙ってニコニコ手伝うジョー、夫婦の共同作業がひたすら微笑ましい。

・それにしてもこの回のジョー、自分の熱烈ファンだったはずの年下ベリーに「飲まんとき」「こぼすさかい」とぴしゃり厳しく制されても、弟みたいな顔で大人しく従うし、回転焼き屋の準備ではずっとるいの後について手伝いし続けてるしで、ほんと悪い意味での“男のプライド“的なものとは無縁の人として描かれてるなあ…と。
当初から相手にふわっと寄り添える優しい人ではあったけど、恋人のため戦う、自分の腕で恋人を幸せにしてみせるという昭和的”男らしさ”に縛られての暗闇落ちを一回経て、るいとひなたの道を歩くと決めてからは、生来の物柔らかな善さが芯として座っている。


・ギャンブラーな るいと、宇宙人なジョー、肩寄せ合う2人の子供が生き直しを試みる京都編。その始まりにベリーさんを持ってくるのは、大阪編初回に竹村夫妻のあの雰囲気だけで、ああ るいはもう大丈夫だと思えた安心安全感と同じ親切設計ですね。
そして、ジョーの追っかけ時代を「大阪での仮の姿」だと言い切るほど公私の線をきっちり引いていた彼女が、それでも るいに何かあったら頼れと実家の電話番号を教え、訪ねてきた大月夫妻へのもてなし方に現れているとおり決してそれが義理やお愛想じゃなかったことに、限りない情の深さを感じるのです。

ジョーがホットドッグをこぼすような男だと知りながら、その才能に惚れてファンであり続けた一子さんだもの。「控えめな女」に見えてた るいが実は意外とギャンブラーだったという、そのギャップに面白みを感じないはずないんですよ。

そして来週月曜放送は、隠れ里再びのあの回。楽しみ。



#061 2月17日(月)


・2周目で改めて見てもこの回が、真っ暗ジョーの「お前とは終わりや」から幕が開けた月曜回と同じ週である事実を一瞬忘れそうな、あっけらかんとした明るさが染み渡っていく回。
安子編の懐かしさ、大阪編のおかしみをうまく引き継ぎつつ、これから始まる新天地京都編はこのトーンでやりますよーー!と宣言する、ようこそのお運びで回だったんだなあ。

・文字通り「絶品」だった第54回を、セルフオマージュしての回転焼き勝負とチャンバラ。
ここで、「日本映画史上類を見ない圧巻の立ち回り」をしたモモケンと虚無蔵、関西一の座を懸けて最高の共鳴をしたトミーとジョーという、2組の実力者が本気でぶつかり合ったジャズ✕時代劇セッションを背景に持ってくることで、お茶の家の娘として舌に絶対の自信を持つ一子、知らずに母と同じ言葉で「うちのあんこは絶品ですから」と言い切る るいとの”勝負”も、同じくらい真剣なのだと描写されるのが、とても好き。
だから、合間にジョーと吉右衛門ちゃんの子供のようなチャンバラを挿んで笑わせつつも、一子の「認めたるわ」は間違いなく本物なわけで。そして、るいが母から継いだあんこの質も。

・るいが幼い日の記憶を頼りに炊いたあんこは、その出来の良さはともかく、恐らく たちばなの味をそっくり完全に再現できているわけではないのでしょう。まして、たちばなにはなかった粉物の回転焼きという形。だから、赤螺親子はあんこを食べても、岡山でよく食べていた和菓子屋のことをダイレクトに思い出しはしない。赤螺親子と るいの母安子がかつて同じ商店街にいたことなど、互いに知る由もない。ここで点と点はそう上手く繋がってはくれない。

だとしても、るいのあんこが「絶品」であることには変わりなく、赤螺親子にもどこか「懐かしい味」だとしんみり感じさせる。
決して劇的ではないけど優しいリアルとファンタジーのこの塩梅が、親から子へ継がれていくものを描きながら、当然ながら親と子は別人格であることも描く『カムカム』らしさだと思うのです。

おはぎから回転焼きに形を変えて”大月”の味が確立されたように。吉右衛門ちゃんはケチ兵衛さんに似てきつつも、まだ子供っぽいところがあるように。モモケンのせがれ団五郎が、あえて父とは違う軽妙なキャラでテレビで舞い踊っているように。
三世代の変奏が、ヒロインだけでなく幾つもの親子を通して並走し、重なっていく妙。

・それにしても、本放送のときも「けったい侍」をコンコンチキ♪と楽しそうに演じる菊之助さんに、こういうオチョけた役の菊之助さんを見られるなんてレア中のレアでは…と拝む気持ちがありましたが、今年菊五郎を襲名されるタイミングで見ると、こう、ますます貴重な映像に思える。

そして、いかにも頭の天辺から足の爪先まで銀幕スタァな風格だった初代モモケンと、戯けていても所作の美しさと品の良さがにじみ出てお茶の間の人気者になるのがひと目で分かる団五郎ちゃんとで、演じ分けが凄いなあと改めて。

・本放送のとき、戦前から続く看板シリーズを背負う名優を父に持ちながら、父とは全く異なるこの芸風でテレビを主戦場に定めたとすれば、きっと明るく踊る団五郎にも深い確執のドラマがあったに違いない…と、このときから確信していた藤本脚本好き。

・2周目で思うのは、この時点で既に団五郎と算太はどこかの『隠れ里』上映映画館で会っているはずなので、このけったい侍の収録にも、算太が立ち会っている可能性があるということ。
もしそうだとしたら、二度と合わせる顔がない妹を思い出させる「英語」、けったい侍が「お江戸に居場所はねえ」と旅に出るシナリオを、彼はどういう思いで聞いていたんでしょうね…。

・しかしモモケン、大正4(1915)年生まれで昭和8(1933)年デビューということは『桃から生まれた剣之介』は18歳だったのか。それからずっと条映の時代劇を背負い続けて…うっ。


・ジョーが『隠れ里』が映画初鑑賞だったにもかかわらず、モモケンの殺陣を再現できるのは、恐らくバンドマンについて回って演奏を”見て”覚えた叩き上げ演奏家ならではの経験もあるのかなと思うのですが、そんなジョーに合わせられる吉右衛門ちゃんも、どれだけ映画館に通ってたの…と思うんですよ。ジョーへのあの話しぶり、駄作と言いつつ絶対『隠れ里』好きじゃないですか。多分、自分が言っても他人が「駄作」と言ったら怒るタイプのオタクだと思う吉右衛門ちゃん。

こんな2人の大真面目で珍妙なチャンバラに、笑っちゃいながらどこか切なくもなるのは、2人とも無邪気な子供時代を喪失してる同士だと知っているからなんですよね。
定一さんがジョー少年の顔を初めは知らなかったことから、あの商店街の子でないと分かるものの、恐らく市内周辺の子であるのは確かで。もし何かが違えば、戦後に再建された岡山の同じ映画館で、吉右衛門ちゃんとジョー2人の少年がモモケン映画を見て、チャンバラのフリしながらすれ違っていたのかもしれない。そんな2人が、互いの縁も知らないまま交わす、子供のようなふざけ合い。


 



#062 2月18日(火)


・2周目なのに、単体でも何度か見返しているはずなのに、それでもラストの誕生シーンでふと涙がにじんでしまった。
光あふれる春のサニーサイドへようこそ、ひなた。

・改めて見ると、ひなた編の るいお母ちゃんとジョーお父ちゃん、ひなたが幼稚園のころ変わってると周りにからかわれた、それでもずっと大好きだった家族の形が、ここで確立される回だったんだなあ。決してスムーズだったわけではなく手探りでも、るいとジョーが作り上げた2人ならではの大月家の在り方。

・ジョーは決して自分の不甲斐なさに無自覚な”天然”ではなく、ご近所さんの「仕事もせんで」な視線に誰よりも自分自身がもどかしく傷ついてもいることは、るいにふと申し訳なさそうに零す「何にもできひん僕」の一言や、河川敷で子供を迎えに来たサラリーマン姿の父親に向ける無言の目線に、さりげなく現れているんですよね。
関西一のトランペッターとして恋人をアメリカに連れていく夢が実現目前だった男だもの。自分が何もできない事実を日々突きつけられ、辛くないわけがない。

だからこそ、るいの「そないなこと もう一遍でも言うてみ、すぐ離婚やで」を受けて以降、アホな冗談は言っても自虐的なことはもう二度と言わず、「なってあげて、この子の大好きなお父さんに」を全力で守り通したこの後のジョーさんに、ほんわか笑顔の下にあった揺るぎなさを見るし、ある意味で、ひなたが憧れる【絶対に泣かず、弱音を吐かず、決めたことは命がけでやり遂げる侍】をジョーお父ちゃんも体現していたと思うのです。

・かつて、生まれ育った店と街の小さな世界が全てだった14歳の安子が、初めて自分の足で自転車を漕ぎ出したとき、もう世界の広がりが止められなくなったように、トランペット以外のものを学ぶ機会が欠落してきたゆえに自信喪失してたジョーが、ここで るいを思って初めて自転車を漕げたとき、新しいアイデンティティをそっと得られるのが、世代を超えた優しい繰り返しと変奏ですね。
そしてどちらでも、広いひなたの道へ漕ぎ出す人の背中を押す「顔上げて漕ぎ続けとったら前へ進むから」の明るさ。

・自分を養うため阿漕な商売に走った父を「ケチ兵衛」と罵ってしまい、それが別れになってしまったことが傷になっているのだろう吉右衛門は、明らかに るいの変奏でもあって。
そんな彼が、移り住んだ母の故郷でわざわざ空襲で焼けた生家と同じ荒物屋を興し、父に似てきた=父のケチの真意も理解してきてるのだろう姿は、母と同じあんこを使った店を始め、いつか母のことが分かるかもしれないと思う るいにとって、ひとつの希望として配置されてるんだろうなあ。もちろんそれは、るいも吉右衛門も知らない、物語を見ている側だけが知っていることですが。

・そしてこの回、結婚報告をする一子さんの笑みに余計ふふっとなってしまうのは、最終回で夫の姿を見ている2周目ならでは。はー、るいと同じ顔になってしまう。

大阪編ではいかにも忙しく遊んで見えてましたが、お茶室での様子を見ると大学通いながらお稽古もきっちりしていたようですし、地元の皆さんに「野田さんところの一子ちゃんが言うなら」と信頼されるほどの関係を構築していたあたり、卒業後を見据えて実は着々と準備を万端に進めていたのが分かる。
なので、大阪時代のジョーにぐいぐい押していたのは、恋としてジョーとどうこうなりたかったというより、やはり純粋に演奏者ジョーの才能に惚れ込んだファンとしての部分が大きかったんだなあと。もちろん、京都編で るいに女友達としてさっぱり接しているのは、一子さん自身の美徳ですけど。

・るいとジョーの子が生まれる日。ここで岡山県初の甲子園優勝が決まった日という勇ちゃん大喜びの史実を絡めるのはもちろん、4月4日という春真っ盛りの日に生まれてくるのが、いかにもサニーサイドの申し子ひなたらしい。
ついでに、4月4日=学年の初めにひなたが産まれるなら、今日の回中盤でこれから結婚という話だった一子さん夫婦、そして吉右衛門と初美さん夫婦のところも、同じ学年に子供が生まれておかしくない話になるんだなあと、設定の妙に改めて気づいています。
明日からいよいよ、ひなた登場。

 

 

 

< 前の記事 ▼一覧 後の記事 >
Copyright(C) 2008 - 2026 baserCMS Users Community All rights Reserved. baserCMS : Based Website Development Project  CakePHP(tm) : Rapid Development Framework