カムカムエヴリバディ第12週「1963-1964」
#053 2月5日(水)
・しっとり美しい短編映画のようだった第11週から、『隠れ里』絡みで洒落のめした演出が味わえる第12週前半へ。この振れ幅も『カムカム』の好きなところ。
・『隠れ里』黍之丞の台詞がなぜか突き刺さって奮起するジョー。安子編から何度も出てきて、てっきり岡山=桃太郎にちなんだ名前なのだろうと思っていた「黍之丞」が、つまり「吉備(岡山)のジョー」でもあると分かり、エウレーカ!になった回でもありました。本当に藤本脚本は、こういう名前の仕掛けがあるから油断ならない。
・映画を見た帰り道、眉間にしわ寄せた真剣な顔で告げる「勝つよ… サッチモちゃんのために戦うよ」の言い方、ジョーさん的には精いっぱい黍之丞の世界に寄せて真似た(影響された)言い方なんだろうなあ。
るい編当初は独特の語彙でぽわぽわ宇宙人だったジョーが、やがて徐々に明瞭な話し方になっていく ひなた編での変化は、商店街での生活だけでなく、毎日ひなたと見てた朝ドラや時代劇からの学びも大きかったのだろうと考えると、その最初の萌芽がここに…と、ふふっとなる。
・サッチモちゃんと一緒にアメリカに行く夢を語り、映画を見て心揺さぶられ、るいが選んだ衣装じゃないと駄目だとこだわる。戦争で何もかも失った子供として、本当に「トランペットだけ」の人生だったろうジョーの心に、「だけ」でないものが芽生え始めている。
るいの強張った心がほぐれていく過程だけでなく、ジョーのこの過程も丁寧に積み重ねた果てに、あの第59回があるのかと思うと、2周目組としては、もう。
・ジョーが磯村氏の予想にあそこまで本気で落ち込んだのは、単に「勝てない」とばっさり言われたことだけでなく、「光り輝く太陽」トミーと比較して「闇夜の月」に例えられたのも、より堪えたんだろうなあ。
ずっと周囲の評価や成功の有無にも淡白で飄々としていたジョーが、初めて勝ちたいと思い始めた今だからこそ、正統派坊っちゃんのトミーをいざ前にしたとき、サニーサイドの向こうに封じていた戦災孤児時代の記憶が顔をのぞかせる、ある種のバックラッシュ。
そりゃ、黍之丞の「暗闇でしか見えぬものがある、暗闇でしか聞こえぬ歌がある」が琴線に触れるはずなんですよ。
・「ひなたの道」を太く貫く主題にしながら、劇中作の台詞「暗闇でしか見えぬものがある」にも後々まで響く意味を持たせる『カムカム』の良さ、何度でも語れる。
明るいひなたを歩く人生にも、暗闇しか歩めぬ人生にも、等しく酌まれる豊かな意味。
・「日本映画史上まれに見る駄作」と言われつつ、ジョーの心は確かに揺さぶった『隠れ里』。
評論家に酷評され、実際数字が振るわなくても、ほんのワンシーン、一言の台詞、そもそも見たタイミングや状況込みで、ちょうどその人にとってストライクな部分があり、人生の”特別”になる作品ってありますよね…と、深く頷きたくなる。
・『カムカム』に限らず藤本作品では、個人と芸能エンタメの関係について、こういう「人の評判は知りまへんけど、わいの中の評判は群を抜いてよろしおまんねん!」(ちかえもん)な出会いがよく描かれてて、その描写自体にも結構救われてきたことを、しみじみ思うのです。
・そしてこの回のオチ、「錠一郎とはそういう男なのです」の一文を書いたのが、ひなた先生だと思うともう可笑しみが増して。
娘から見ても「そういう男」であり、「そういう男」だからこそ「大好きなお父ちゃん」なのもよく分かる、2周目の頭で聞くナレーション(ひなた先生監修)。
#054 2月6日(木)
・ジャズ✕時代劇の火花散るセッション。本放送のときは、朝からこんなにもワクワクするものを見られるとは…!と大興奮のまま仕事前の感想連ツイが止まらなかったし、再放送(プラス)視聴の今夜は酒がまことによく進む。いい映像はいつ見ても、何度見てもいい。
・主人公と直接は絡まないスポット出演的な時代劇スター役に菊之助さんを引っ張り続けるとは、えらい贅沢な配役だなあ…と思っていたら、るい編のここまで来て、なるほどこれは確かに菊之助さんクラスの人でなければ絶対に成立しない話でした、とひれ伏した当時。
凄い人の凄い技術がなければ不可能なやり方で大真面目に遊ぶからこそ生まれる可笑しみ、という意味では、茂山千五郎家の皆さんに超!高速忠臣蔵を演じていただいた『ちかえもん』にもよく似ている洒落っ気。
・さりげなく安子の子役時代から『カムカム』世界に出続けているモモケン。
第2回で算太が見に行ったモモケンのデビュー作が1930年代半ば、第7回の1939年には黍之丞シリーズも第弐段と銘打たれており、それから戦争を挟んでほぼ30年、作中1963年の今もなお看板シリーズが続き、しかもその歳で「日本映画史上類を見ない圧巻の立ち回り」をやってみせたと考えると、あの世界の圧倒的レジェンドなわけで。
長年愛される銀幕スタァの古風な佇まいは、やはり菊之助さんでこその説得力ある味わいだったなあと思うのです。その後のひなた編で見られる、団五郎ちゃんこと二代目モモケンとの振れ幅も併せて。
・また、この演技演出音楽全て気合入った熱量高いカットバックが、単に るい編の華やかな山場というだけでなく、ジョーとトミーの実力が「日本映画史上類を見ない圧巻の立ち回り」に匹敵する伯仲の間であることを説明し、そしてジョー=月=虚無蔵、トミー=太陽=モモケンという構図の重なりとで、ここまで並行し描かれてきた英語ジャズ時代劇諸々の要素が一旦集束して ひなた編映画村パートへ繋がり広がっていくための結節点にもなっているんですよね。
このセッションを他でもないトミーこそがずっと待ち望み、心から楽しんでいるのが溢れるほど伝わってきたから、後々ひなた編でも、世間には「駄作」とされる『隠れ里』と敵役の虚無蔵さんが初代モモケンにとってどれほど大切な存在だったのか、それが息子の二代目モモケンにとってどんな意味があるのか、よく分かる補助線になるという。
・それにしても、ジャズセッションとチャンバラのカットバックを脚本に書いてくる藤本さんの発想も相当に飛んでるけど、その「日本映画史上まれに見る駄作」にして「日本映画史上類を見ない圧巻の立ち回り」をまことそのとおり痛快な映像に立ち上げる制作陣もトンデモないと、つくづく。
るいと片桐のデート時点で既に『椿三十郎』より古いと言われていたとはいえ、戦前から愛されてきたのは確かなモモケンの鍛え抜かれた殺陣、それを長年受け続けてきた虚無蔵とが合わさって、本気で傑作を生み出そうとしたのだと分かる「圧巻の立ち回り」と、しかしそこに偏重したためにバランスを崩したのだろう作劇。
いかにも評論家に「荒唐無稽な展開の駄作」と手厳しく言われそうな画でありつつ、「社運をかけた大作」も「虚無蔵は条映の秘蔵っこ」も決して嘘ではないのだ、と劇中作として見られる『隠れ里』の映像からよく分かるので、ジョーさんにとってこの映画が人生の”特別”になるのも、この後のひなた編で果たす役回りも、全て納得できる。
・この作り込み方が好みすぎて、『隠れ里』リマスター版が神保町シアターあたりでかかってたような気になってしまう。
・後半5分のセッションだけでも延々語れてしまうんですが、その手前、コンテスト開演から続く出場者たちの演奏と、ジョーのシャツを染み抜きしていく るいの手際よい作業がカットバックするのも、とても好き。
黍之丞VS左近の立ち回りがジョーVSトミーのセッションに匹敵するのと同様、クリーニング屋としてシャツを仕上げる るいの仕事も、出場者たちがコンテストに懸ける真剣さに等しいのだという。
・ジョーさんのケチャップ騒動、単に時間勝負でハラハラさせるエピソードというより、るいにとっての”幸せ”が、シャーベットカラーのワンピースで客席からジョーを見守ることなのか、それとも…とさりげなく考えさせる切っ掛けになっていたんだなあと2周目で思う。そうなんですよ、るいは「私が守る」と言うほうの人なんだ。
・この回の隠れたMVP。トンデモ展開にぽかーんとしてる前半から、「圧巻の立ち回り」ですっかり夢中になる後半まで、観客から見て『隠れ里』がどういう映画なのか、表情だけで分かりやすい竹村夫妻が、本日も慕わしい。
映画が始まる前、アンパン頬張る和子さんを慈しむように見る平助さんの表情が何とも言えなくて、この夫婦にもきっと るい編に至る物語があったのだろうと自然に思える。
・そしてこの頃、どこか別の映画館では、すすり泣いてる団五郎ちゃんと算太が出会い、算太は「あんこがまずい」とアンパンに文句言っているんだなあ…。今はまだ るいが封印しているあんこ炊きのおまじないを、別の誰かがひっそり唱え、後悔とともに涙している。
#055 2月7日(金)
・満場一致で優勝し、祝福されるジョー。長年推してきた演奏者が遂に認められた瞬間を見届けたベリー。ずっと待ち望んでいた盟友ジョーとの”共鳴”を満面の笑みで最高だったと振り返るトミー。仕事着のまま影から見守り、そっと小声で「おめでとうございます」と立ち去るも、ジョーのほうが追いかけてきてプロポーズされる るい。
幸せな、なんと幸せなOP前。
・竹村クリーニング店で1年半近く暮らし、すっかり馴染んだようでいながら、いざ結婚退職を考える事態になったとき、跡継ぎのいない店の今後、夫妻への恩義を思いすぎて身動きできなくなってしまう るいの逡巡に、雉真の「家」と母の「店」再建で板挟みになった幼い頃の痛みの根深さが、改めて浮かび上がってきますね……。
そんな るいにとって、「店なんて ただの形」「一時でもあなたと過ごせた日々こそが幸せ」と軽やかな竹村夫妻の言葉は、どれほど救いだったろうか。
・とはいえ、これは安子の苦闘と敗北を”否定”するものでは決してなく、当時どうしようもない状況で雁字搦めに縛られていったものから、今の るいだけでなくあの頃の安子も遡って解放するものなんだろうと思うのです。ひなた編ラストに向けた、ひとつの仕込み。藤本脚本、そして『カムカム』はそういう物語だ。
・最終的に『カムカム』百年の物語が行き着く風通しのよい到達点を思うと、ちょうど全112話の折り返し地点で、「店など ただの形」と言い切り、血縁でない繋がりの幸福な形を静かなクライマックスとして据える構成に、改めて唸る。
・そして2周目で見ていると、こんなにも多幸感あふれる回だからこそ、るいの返事も聞かないうちにジョーがいつもの突拍子なさで「サッチモちゃんを僕にください」と勝手に話を進めてしまい、それでも結果的に功を奏したことが、「不穏な未来」に向けてひとつのフックだったことが見えてくる。
出会ったばかりの「サッチモちゃん」呼びから始まり、以来何度も、相手の芯を独特の語彙でふんわり掴んでくるジョーと、彼に長年封じていたはずの”本心”を引き出されてきた るい。しかし、その一方的な察しのよさに委ねる関係は、どこかでその察しのよさが思い込み暴走に転ぶ危うさもはらんでいたわけで。
るいのため勝つと語っていたジョーがこの後、るいの幸せを思うからこそ陥ってしまう”暗闇”と、るいが「私の幸せを決めつけんといて」と勇ましく突貫していく第59回までの紆余曲折は、今日の回の小さな引っ掛かりを2人が粉砕し、もっと揺るぎないアイデンティティを形成していく第一歩でもあったんだなあと。
・しかしながら、それは2周目視聴としての話。
ただこの回そのものを味わうとすれば、やはり、血縁でなくてもここまで慈しんでくれる存在に出会えた るいジョーと、そこまで愛せる存在と出会えた竹村夫妻との、ひたすら幸福な泣き笑いの食卓を祝福したくなるのです。
・るいとジョー、ディッパーマウスブルースを介した繋がりがようやく判明するのも、この回。
初めてはっきり回想されたジョーと定一さんとの始まりを見ると、ダグラスでジョーが言っていた「もうホットドッグ食べるのやめるよ」が、ただクスッと笑えるだけの台詞ではなく、実は るいのため相当重いものを懸けていたのが分かるし、コンテスト前の「錠一郎とはそういう男なのです」なミスに繋がる食事も、「暗闇でしか見えぬものがある」で戦災孤児という自らの原点を再認識したからこそ、ホットドッグを食べなければならなかったのが、よく分かる。
こう、ちょっとした笑いどころかと思っていたものが、後々でシリアスに効いてくるのも、藤本脚本ですね…。『ちりとてちん』でよく知っている。そして『カムカム』では切れ味が増している。
#056 2月10日(月)
・2周目でこう見ると、ジョーの優勝、るいとの幸せな約束、そして上京から発病まで、本当にあっという間で凝縮されていたことに、改めて驚く。
本放送のときは、明日のやさぐれジョーさん締めで週末に入り、頭抱えてハラハラしながら翌週月曜日を待つはめになったので、ズレのため奇しくもあの海の回まで一気に見られる再放送の構成、ありがたい。
・戸籍に書かれた自分の名「錠」の字に指を押し当て、「定一さんは、僕の中にいてくれてる」と語るジョーの声が、とても穏やかで優しくて。実の両親や本当の名字という基盤の記憶を失っていても、自分を愛してくれた人が確かにいた記憶を名前の中に見出し、いつでも引き出せるのは、やはりジョー自身の美点なんですよね。
サニーサイドで出会った定一さんの記憶を名前の中に刻んでいるジョーと、会ったこともない父がサニーサイドを通し語った夢が名前に込められている るい。2人の名前の静かな共鳴。
そんなジョーだから、やがて第97話で、自分の名前の由来を”本人”から聞けるところまで るいを連れていけたんだろうなあ。
・名前に含まれた「定一」の字だけでなく、一番古い記憶であるクリスマスパーティーの夜12月25日が誕生日になっていることも、ジョーにとっては定一さんの愛情を思い出すよすがのはずで。
だからこそ、その日がデビューライブになるはずだった高揚感、その日に るいと再会するはずだった思い入れ、その日を前にトランペット吹けなくなることの絶望は、どれほどだったか。
こう、名前だけでなく、日付にも意味を塗り重ねてくるのが、寓話性の高い藤本脚本のまんじゅうこわいなところなんです。『ちりとてちん』の赤穂浪士討ち入りの日とか。
・ジョーさんの戸籍、今回の再放送でじっくり拡大して見てみたら、就籍日付が昭和24年2月14日だった。少し気になって過去の月齢分かるサイトで見てみたら、昭和24(1949)年2月13日(日)が確かに満月なんですね。
つまり、進駐軍のクリスマスパーティーが開かれた昭和23年(1948)年12月25日の夜から、定一さんはジョー少年の寝床を探し回ってくれていて、やっと探し当てたのが翌年2月13日(日)で満月の夜。そして早速、翌日の月曜日には裁判所に連れて行って就籍の手続をしてくれた…ということでしょうか。
どこまで設定が考えて作り込まれているか分かりませんが、あの満月と戸籍に書かれた就籍日付との関係に、”クソガキ”を一旦受け入れると決めたら早かった定一さんの行動力が現れているとしたら、とても慕わしい。
・憎まれ口を叩きながら心底るいを心配してくれるベリーさんは、今日も相変わらず恋敵兼親友の鑑だ。
2周目で分かるけど、ベリーさんの女性評は るいのプロフィールを聞いたときに尽く外れていたので、つまり奈々さんを「あれは絶対!ジョーを狙てるえ」と言うのも、最初からハズレが確定していて、微笑ましい。
・そして奈々さんのことも、この時点では笹川社長が「一とおり仕込んだ」「音楽のセンスは最高」と言いながら、「やることもなくぶらぶらしてる娘」と言っているのが、なかなか興味深いですね。娘の才能を認めつつ、その働きを頼もしい跡継ぎ候補者としてでなく、あくまでお嬢様の道楽として扱って便利使いしている感。
父のあんこ作りを受け継ぎながら、「家」の枠の裂け目に陥り、敗れていった安子の時代からまだ十数年。風通しのよい ひなた編へ至るまでの微妙なグラデーションが、このときの奈々さんの扱いにも現れている。
(2周目で見ると奈々さん、父親にそう勝手に言わせてる上で、好きな音楽に目いっぱい関われるよう強かに立ち回ってる人かもしれないな…)
#057 2月11日(火)
・女のほうが何度も出し続け、開封されず(できず)に溜まっていく手紙。 ああ、たちぎれ線香だ……。ただ違うのは、やっと再会できたとき死んでいたのは、女のほうではなく、男の心だったということなんだ。
・ここで、コンテスト前に木暮さんが言っていたジョー評「あいつにはトランペットしかない」が、重くのしかかってくる。
出会ってすぐに、るいの名前がルイ・アームストロング由来だと見抜き、自分と同じくサニーサイドが「すごく特別」な彼女に運命を感じたのは、トランペットが全てのジョーとしてはもう必然だったわけで、だからこそ、その「しかない」トランペットを失ったら、るいとの運命が途切れたとも思い込んでしまうんですよね。
それは、名前の由来を本人が否定しているうちから勝手にサッチモちゃんと呼び始めた、あのときは確かに良いほうへ転んだジョーの思い込みの一途さと、同じもので。
・とある芸術を通して両思いになった2人。肉じゃがをつくって「良い奥さん」になる日を待つ女。コンテストの優勝という栄冠を結婚の条件として自ら課しながら、その栄冠を失ったとき、女を苦労させたくないと勝手に別れを決める男。
やはりこのあたりのジョーとるい、明らかに『ちりとてちん』草原兄さんと緑さんのセルフオマージュではと思うんですよ。
そして15年前の『ちりとてちん』では、草若師匠を筆頭に男性陣のそうした「男は黙って」系の不器用メンタルが、駄目なところも含め愛情もって描かれていて、それは同じく『カムカム』勇ちゃんや発病直後ジョーもそうなんですけれど、それはそれとして『カムカム』では、そんな古風メンタルが却って問題をこじらせてしまう厄介さに対し、より自覚的になっていると感じるのです。
その自覚的な作劇が、三世代の物語で反復されるリフレインを際立たせてもいるなあと。
・「るい」と呼び始めたジョーに「大月さんって呼ぶのやめへん?」と言われても、まだ次の呼び名を見つけられないままだった るい。久々に会ってもまた「大月さん」と呼んでしまう彼女の前に、颯爽した”東京の女”奈々が現れて「ジョー」と呼ぶのが、あーー呼び名がそのまま祝福にも呪いにもなる藤本脚本ーーとジタバタするし、ここでジョーが、運命を引き寄せたあだ名「サッチモちゃん」でも、結婚を決めたとき呼び始めた「るい」でもなく、あえて乱暴な「お前」で、嘘の憎まれ口を言うのが、もう。
・ジョーの「お前とは…終わりや」の発声、少し前の黍之丞映画に触発されて「サッチモちゃんのために戦うよ」とぽつり言ったときにも少し似ていて。自分の中に本来無い、よそから引っ張ってきた語彙を一生懸命言っている、借り物衣装のようなぎこちなさ。
この独りよがりな、しかしジョーにとっては るいのため切実な思いでついた嘘を言わねばならないとき、後にも先にもこのときしか使わなかった乱暴な「お前」を選んだことにジョーの必死さも見えるし、またそこで、2人にとって特別な曲サニーサイドが込められたあだ名「サッチモちゃん」も本名「るい」も使わなかったことに、たとえ無意識のうちにでもジョーが決して踏みにじるまいと避けたものが見える気がするのです。
・本放送時感想再掲。
本放送のとき、この時点ではまだジョーさんの病気が治るか分からなかった(だから希望を込めて「一度でも」と書いた)けど、最終的に、トランペットという友人の足音がジョーさんの耳から遠ざかっていっても、「それでも人生は続く」物語にしたことで、ひなたの道を歩いていく主題に普遍性が増したことをしみじみと考える2周目。
ここから、「控えめな女」をかなぐり捨て、安子編ラストの痛みを力強く上書きしていく るいの表情が、とても好き。




