カムカムエヴリバディ第11週「1962-1963」
#048 1月29日(水)
・何度見ても、ああ美しいなあ、好きだなあと感想がそれしか言えない、情緒あふれる第48話。もっと正確に言えば47話とセットで、『On the Sunny side of the Street』が柔らかく鳴り響く1本の短編として、大好き。なので、本来週を跨ぐこの2本を続けて見られた今回の再放送構成には、偶然とはいえ拍手したくなるのです。
・思わず店を飛び出し、ジョーのもとへ駆けていく るいは、やはり「ひなたの道へ」の図なんだなあ。安子と稔が往復書簡で交わした声が自然と蘇り重なってくる。「心配事は玄関に置いて、ひなたの道へと歩き出そう」「聞こえる? あの楽しげな音。あれは幸せな君の足音」
夏の日差しを浴びるジョーの耳に、駆け寄ってくる るいの足音は、どんな幸福な音楽に聞こえたのだろう。
・ここでついに、ジョーがあの少年だったと明かされる構成に、胸が熱くなった本放送時。まさか、もしかして、と熱が高まってきたものが、やっぱり!と物語の中でひとつ結実する喜びは、実に気持ちよかった。
それは、ただジョーとるいを結ぶ繋がりへの感慨だけでなく、安子編でずっと気になっていたあの少年が、ちゃんと今は大人になって良き仕事と周囲に恵まれていることへの、良かったなあという安堵でもあって。このひとつの安心感が、安子編で積み残されたものを抱えたまま物語が向かっていく後半戦で、小さな支えにもなっていったことを思い返す。
・幼かったるいの中で、進駐軍さんと恋した母、私を捨ててアメリカに行った母、という形で整合性がつけられてしまっている当時の断片的な記憶。それをぽつぽつ話す るいの語り口は、片桐に『善女のパン』あらすじを語ったときにも、どこかよく似ている。るいにとって、サニーサイドに関わる母との過去は、何か”お話”のような距離感でようやく言葉にできるものなのかと、ふと切なくなる。
・るいより年上のはずのジョーに、あの夜のライブより前の記憶がないのは、つまり戦災孤児になった経緯がどれほど恐ろしく辛いものだったのかの証左のようで。
しかし、そんな孤児になる前後のつらい記憶ではなく、『On the Sunny side of the Street』に見た「明るい光に照らされてる」予感を記憶のベースと認識しているジョーだからこそ、るいの打ち明け話を聞いて「会いたいんやなあ、お母さんに」とふわっと芯を言い当てられるんですよねえ… 眩しいほどの善性。日差しの下でまっさらに洗われる心の染み。
・そして、ここまでずっと付かず離れずの距離で るいの過去や初恋を見守っていた竹村夫妻が、ここで、母に捨てられたという るいの話を聞き、しかも「会いたいんやな、お母さんに」と るいの内奥を汲み取れるジョーの人となりを見たとき、やっと初めて一歩踏み込み、2人の仲を取り持つようにおせっかいするところに、夫妻の人を見る目を思うのです。
・ジョーさんは、何か気の利いた台詞を言ったわけではないし、竹村夫妻も母のことで るいと何か話し合ったわけではない。
それでも、忘れたかった記憶そのものの『On the Sunny side of the Street』を昨日の回で拒絶した るいが、レコードを買おうと決意し直すに至る今日の回ラストまで、その感情の自然な流れが、夏祭りの時間の中にゆったりと存在している。
やはり47~48話は、ひとつの短編として美しいなあ。
まるで小さな子供の手を引くように風鈴を愛おしげに低く掲げ、歩く2人。かつての子供2人が肩寄せ合う背中は、過去への物寂しさを抱えつつ、今への充足感もふわりまとっていて。15分の中に挿入された無言のシーンの限りない情緒。
#049 1月30日(木)
・サニーサイドを聴く るいの脳裏に浮かぶものが、セピア色の母の記憶から、ジョーさんの演奏姿になる。クリーニング屋の前を通った妊婦さんが、次のカットでは乳母車を押して通る。影のあるお嬢さんだった るいは、竹村夫妻と西村さんの和やかなやり取りにも混じり「すっかり大阪人やなあ」と笑い合う。
るい編の始まりから1年の積み重ねをさりげなく感じる今日の回。
・今日の回の るい、心の中でつぶやく英語は子供の頃のように滑らかな発音だし、子供らに投げ返す野球ボールは誇らしげで力強いんですよね。るいの中でサニーサイドとひとつ”和解”の糸口ができたからか、もう二度と戻らないはずの故郷と強く結びついているものも、自分を構成する一部として柔らかく受け入れ始めているようにも見える。少しずつ明るくしなやかになっていく笑顔。
・…だからこそ、ここまで来てなお るいに臆病さを抱かせてしまう傷の根深さが際立ってくるのですが。あそこまでジョーに気を許し、名前の由来に触れられてももう動じないのに、額の傷に思いが及べば後ろ向きになってしまう。
2周目で見ると、なかなか一気に るいの蟠りを解決させないこのあたりの描き方、本当に根気強く描写を重ねていたのだと改めて思う。ジョーさんの大きな試練に向けて、るい自身の「日々鍛錬」もじっくり描かれていたのだと。
・結構です~と控えめな態度の女が全てを手に入れるんや、控えめの皮をかぶった強欲の塊や!と叫ぶ、怒ってもチャーミングなベリーちゃんの論理展開が、もう『ちりとてちん』奈津子さんの「肉じゃが女」説そのものなので、藤本脚本好きとしては、ここできゃっきゃせざるを得ない。
そして奈津子さんと「肉じゃが」の顛末を知っているので、ベリーが るいの良き親友になる未来がこの時点から見えて安心できていたのも、本放送時の藤本脚本好きなのです。
・2周目で見ると、何も要りませんと言ってるくせに気がついたら何もかも手に入れてる女、というベリーの評が、この後の展開に大きく掛かっていたんだなあと気づく。
実はこのあたりから暫くの るい、傷からの臆病さで身を引こうとする仕草も含めて、周囲のアシストやジョーさん特有の察しの良さで反転してもらえたし、だからこそ上京後のジョーさんをひたすら信じて待つ受け身の姿勢になるんですよね。でも、そこから殻を破って「押しの強い」女になってこそ、ジョーを暗闇から引きずり出せたし、自分自身も本当に欲しいものを手に入れられた。
このとき、『善女のパン』だけでなく、ベリーちゃんの「控えめな女」論の呪いも るいはぶち壊した(言い換えれば、ベリーの願いどおり押しの強い女として幸せを掴んだ)んだなあと思うと、なかなか痛快なのです。
・そして、遂に『隠れ里の決闘』ポスター、条映の秘蔵っ子・伴虚無蔵が作中に登場。やんややんや。
ということは、この回で経過した時間までの間に、条映では虚無蔵起用を巡って、初代モモケンと団五郎との父子確執が繰り広げられていたわけで。ひなた編への種まきがもう始まり、そして算太の遠い足音も聞こえてきている。
#050 1月31日(金)
・東京の笹プロが関西地域のコンテスト会場に選ぶぐらいなんだから、ナイト&デイ、実際にはトミーの言う「中途半端なジャズ喫茶」どころではなく、大阪でも通には知られたジャズ定番店で、きっと木暮マスターも名伯楽としての信頼が厚いんだろうなあ。そんな木暮マスターが、鼻っ柱の強いトミーやお嬢様ベリーちゃん、そして孤児のジョーらを見守る姿勢に、ひとつの道を愛する大人としての器を見る。
・ほんと、るい編は竹村夫妻といい木暮マスターといい、大人たちが思慮深い距離感で温かい。そして、この受け取ったものをやがて るいやジョーたちが次の世代へ渡していくのも ひなた編の良さなので、3月放送分が楽しみ。
・るいにとっての額の傷に等しいものが、ジョーにとっての戦災孤児としての記憶なのだと、はっきり分かる今日の回。額の傷と紐づけて るいが心の奥底に封じ込めてきた「母に捨てられた」記憶を、ジョーが「会いたいんやな、お母さんに」という言葉で解凍できたあの繊細さは、ジョー自身も、定一さんのサニーサイドを聞いた日以前の辛い記憶に蓋をし、傷つかないよう生きてるのを自覚してるからなんですよねえ…。
・2周目だと、木暮マスターがジョーさんを評する「あいつには、トランペットしかないから」の言葉が、あまりにも事実どおり重くて、今から震える。
・なので、るい相手には あんなにも遠慮なく相手の芯を捉えた言葉をふわふわ言い放っていたジョーが、ベリーの気遣いには「人のことが分かるなんて簡単に言うな」と珍しく強い拒絶を見せる、その傷の深さに、やはりジョーとるいのお互い、他人には代え難い”共鳴”が見えるのです。
藤本脚本のこういう、その人の隣ならば自分の傷や欠点を他ならぬ自分自身が肯定できるようになる関係性(相手に肯定してもらえる=依存になりかねない関係、ではないのがミソ)の描き方、大好き。
・高校時代からずっとジョーを追いかけてきたベリーさん、「私一人の値打ちは雑魚百人と同じ」とカッコよく言い切れるほど、ジャズトランペッターファンとしての自分の格も上げるよう努力してきたに違いない。
公園の るいとジョーを見てしまう構図は、安子と稔の自転車練習を見かけてしまった勇そっくりで、そりゃ、何で私やないの?と泣きたくもなりましょうが、そこで戦前的男らしさを発揮して稔と安子の結婚を後押ししてしまった勇ちゃんとは違い、泣いてやけ酒飲んでもトミーの策に乗っかるガッツを見せるのが、60年代を生きる女ベリーさんなんである。
やはりこの週、るいジョーの徐々に高まっていく共鳴だけでなく、「ええとこの子にはええとこの子なりの苦労」を長所に転換しているトミーとベリーのカッコよさが、安子編とはまた違う風通しの良さをもたらしていて、秀逸。
・第49回で初めて公園の子供らにボールを投げ返してたらしい るいが、今日の回では「野球のお姉さん」と呼ばれているので、この1年弱の間によく子供らの野球に混じっていたんだろうなあ。
子供たちと仲良く夏祭りで遊ぶジョーを物干しから微笑ましく見ていた るい。見事な投球ですっかり子供らのヒーローな るいを眩しく見つめるジョー。ここに、互いに抱える傷の重さともまた別の共鳴が存在している。そんな2人。
#051 2月3日(月)
・60年代の色彩がキュートでお洒落なダブルデート回であり、安子編から続く『On the Sunny side of the Street』の優しい祈りが るいとジョーにそっと重なる無言の間がすばらしく贅沢な回であり、トミーとベリーの潔さカッコよさが上限突破する回でもある。
軽妙な竹村夫妻コントも加え、『カムカム』の”良さ”が15分の中にこれでもかと詰まっている大好きな回。(というか、るい編はもうほぼ毎回、結論が「大好きな回」になる)
・それにしても、竹村夫妻の再現コントで言われていた【るいちゃんが行かんのやったら私が行く!と和子さんに言われ、困惑するトミー】をぜひご本人でも見てみたかったですね… 本編でも滅多にないでしょ、年長者に押されるたじたじトミー。
・この回、ベリーを利用してダブルデートを仕組んでまで、ジョーにコンテスト出場させようとするトミーの対ジョー感情矢印も相当に太いんですけど、トミーに「ええとこ連れてったる」と言われたからって、恐らく行き先も何も聞かず、車酔いにもめげず素直に参加したジョーがトミーに向けている信頼も、なかなかに極太い。
・トミーの「ええとこ連れてったる」だけで、わあいトミー優しいなあと応じて、いざ当日待ち合わせたら車にサッチモちゃんも乗っていたときの、ジョーさんの喜びようを考えただけでニコニコ顔になる。
・木暮マスターもトミーも、ジョーにはトランペットしかないと言い、実際そんなストイックにならざるを得ない人生だったんでしょうけど、トランペッターとしてのジョーを強く意識しているトミーこそが、ジョーにそのトランペット以外のものを手渡してくれているんですよね。
夏祭りの夜に竹村夫妻の招きで囲んだ家庭の夕食、子供らの花火を見つめていたあの遠い憧れの目と同じく、同年代のトミーに誘われ海に行くこの青春イベントだって、ジョーにとっては、かつて戦争で失い叶わなかった子供時代のやり直しに違いなく。
それを思うと、トミーのからかい「小学生」も、なかなか重たい。
・当たり前の幸せが奪われ、何とかそれを取り戻そうと強く願い奮闘しながらも叶わなかったのが安子編の戦後パートだとすれば、そんな親世代の願いを受け止めつつも、親世代とはまた別の形でそれぞれ自分たちの願いを成就するのが可能となっていく時代が、るい編(と ひなた編)なわけで。
・安子編のときは、14歳の少女が自転車を漕げるようになるだけでも大冒険だったのに、るい編では、主人公と同世代のベリーが、自転車どころか自動車のエンジンぶっ放して颯爽と走らせるんですから。これだけでも感慨深いものがある。
・決して恋の勝ち負けではない、「ジョーが世界に認められるトランペッターになったら、私の勝ちえ」とすっぱり言い切れるベリーさんは、やはり金曜日の回で「(ファンとして)私一人の値打ちは雑魚百人と同じ」と言えるだけのものを培ってきたんだろうなあ。自分にも推しに対しても恥じぬ矜持。
・そんなベリーに、恐らく半ば慰めで「僕と共鳴せえへんか」と言っちゃうトミーも、半分情けなく、そして半分かっこいいんですよ。ファンとしてのプライドとはまた別の女としてのプライドの部分を、道化になってでも掬い上げてる、いい男。
・「あの2人は共鳴し合ってんねん。ええセッションは響き合う、出会ったことが運命やったみたいに。楽器と楽器が、音と音が、響き合う、求め合う、引かれ合う。そして…同じ夢を見るんや」
トミーのこの台詞がやはり何度聞いても良いので、もう文字起こししておこう。
るいとジョーの共鳴も美しいけど、その共鳴を的確に言語化するトミーもすごい。さすが、全ての芸術は音楽に通じるのだと文学も嗜む男。
・るいはもう、心の奥底にある母親のことをジョーに言い当てられても、否定しないし怒らない。ジョーもまた、るいが言うことならば、「分かるなんて簡単に言うな」とは言わない。初めは帽子を深くかぶり、前髪を気にしていた風吹く海辺で、ただ前を向き『On the Sunny side of the Street』を口ずさむ。
ジョーの中にトランペット以外のものが芽吹き始め、るいの中で安子と結びついていた英語やジャズに違う思い出が上書きされていく、この穏やかに高まっていく共鳴がひたすら心地よく美しい。
・そして、ちりとて好きとしては、今日の回でジョーのお洒落着が小草若ちゃんのジャケットなことに、2周目でも底抜けにはしゃいでしまう。
60年代ジャズマンが着ていたこのジャケットが、やがてお洒落古着屋を経て90年代の売れっ子落語家のもとへたどり着いたのかしらと考えると、朝ドラ時空のロマンだ。
#052 2月4日(火)
・この第11週は、夏の日差しがからりと眩しい祭りの屋外から始まり、夏の雨がしっとり降る日の室内で終わったんだなあと気づく。そんな暗い雨模様の日の室内にも「ひなたの道」が明るく見えるのが、この週で るいとジョーが『On the Sunny side of the Street』を歌いながらたどり着いた結末で。
・重たく降り注ぐ雨音。夢を叶えに遠くへ行こうとする人。自分で閉じた扉=カーテン。そして、自ら前髪を上げて額の傷を見せることを”拒絶”の答えにする。るいにとっては、何もかもあの日と同じシチュエーション。
傷を見ても何も言わず、「嘘ばっかりはサッチモちゃんやん、僕のこと…」の延長で笑って抱きしめたジョーの返事は、るいにとって、あの日と同じ悲劇を繰り返さずにジョーとの幸せな現在を上書きしてくれただけでなく、遡って幼い るいの「I hate you」の記憶も本来の「I love you」へ柔らかに書き換え始めていくものだったんだろうなあ。
額の傷は「嫌い」の意味ではない。母は自分を捨てたのだと語る るいの話を「会いたいんやなあ、お母さんに」と解きほぐせたジョーさんだからこそ、るいが再び子供のように震えながら示したこの”拒絶”のサインにも、その奥底の意味を受信できたに違いなく。
・そしてまたこの前段として、ジョーへの返事ができない るいの態度を曖昧だと問い詰めながら、うっかり見てしまったその傷と俯く姿だけで、「何や、やっぱり好きなんやんか」と理解するベリーさんの賢さ潔さがカッコいいのは、もう言うまでもない。
ひなた編でのキーワードになるけど、あくまでも「ジョーのファン」として自分にも周りにも筋を通し続けるベリーさんは、この頃から立派なサムライなんだよなあ。
・恐らく一度見たきりでその後は何も触れず明るく接する和子さん、るいの引け目を「何やそんなこと」とも「気にするな」とも言わず、ただ るいの「ジョーが好き」という気持ちだけを指摘するベリーがいて、そして傷を隠したい るいの意志=おろした前髪ごと無言で抱きしめるジョーさんへと至る。改めて、るいの厚い壁が徐々に解れていく過程の丁寧さと、この丁寧な過程で太い背筋が一本通るからこそ、るい編後半と ひなた編の るいの強さが在ったことを思うのです。
・試着室に入る前の、るいジョー台詞応酬。一方的に話して全て終わらせようとする るいの語りに、ジョーがふんわり割り込んでいき、内容も気持ちも徐々に噛み合っていく(だから るいが感情の決壊寸前で堪えきれず試着室に逃げてしまう)高まりが、まるでセッションのようで。計算し尽くされた緩急に、可愛いと可笑しいが詰まっている。
本放送時の感想再掲。

2周目だと、やっぱり「完璧な人間などいない(Well, nobody's perfect.)」は『カムカム』と親和性高い世界観の台詞だったなあと思うのです。だって「みんな、間違うんです」に至る世界ですから。


