カムカム再放送第8週
2025/01/17(Fri)13:31

カムカムエヴリバディ第8週「1951-1962」

#036 1月13日(月)

・運命の第8週が始まってしまった。
シンプルな副題「1951-1962」、これだけの文字列が、1週間で11年も時が飛ぶほどの何か重大事が起きるのだと身構えさせる。

・きぬちゃんの「何が問題なん?」も、千吉さんの るいだけは雉真に置いていくようにという諭しも、安子の弱いところを突くド正論として、何も間違いはない。
とはいえ、るいの怪我も本当に結果論でしかなく、些細な何かが違えば「おはぎの小商い」で2人はあのまま大阪で(千吉から見れば雉真の孫としては不満なレベルでも)慎ましく平和に暮らせていた可能性はあるし、「不自然」と言われる今の形だって、やむを得ず雉真に引き戻された状態で、るいをただ一人の孫とみなす雉真家との関係、ようやく立ち直ってくれた兄への助力、稔さんが娘るいの名に込めた願い…という全方位に気を配って落とし込んだ立ち位置でもあるわけで。

このうちどれかを諦めるのが真っ当な”正しさ”でしょうけど、そういう”正しさ”をどうしても選べない人たちこそが藤本脚本の住人だしなあ…と、轆轤を回したくなる。(そして、自分が藤本脚本を愛してやまない理由の一つでもある)
本当にこの時代この背景でこの経緯を生きてきた人物として、安子ならこうするしかないだろう、とはいえ周囲もまた安子にこう対応するしかないだろうの積み重ねが、みっちり息苦しく詰められていく。

・死んでしまったためもはや永遠に勝てない兄への思いを安子というトロフィーに仮託し、アメリカに野球で「勝てた」から兄さんも認めてくれる、と愚直に信じ安子にプロポーズする勇ちゃん。しかし、稔さんが安子に語っていた理想は「どこの国とも自由に行き来できる」であり、勝ち負けじゃない。この時点でもう、何より大事な稔という安子と共有できるはずの存在に対してさえ、安子と見ているものがズレてしまっているのが、決定的なんですよ。

・こう、本当にいいやつだし頑張ってるし一途なのは十分見ている側にも伝わるけど、安子と人生の伴侶になれるかといったら実際のところ相性は微妙だろうことも十分理解できてしまう勇ちゃんの説得力と、それを演じる虹郎さんの巧さ。(そして明日の回へ続く)

・なので、きぬちゃんに「はっきりさせんといけんよ」と送り出された安子が、ロバートとの語らい、勇ちゃんへのしどろもどろ対応で「はっきり」自覚できたのは、ロバートへの好意という以上に、稔さんの「どこの国とも自由に行き来できる」を理解し共有できるのはロバートであり決して勇ではない、ということだったように思うのです。

・安子も、安子の話を聴いたロバートも、既に死んで何も言えない稔が何を望んでいたかに関し、はっきり言葉として残っている「ひなたの道を歩く」「どこの国とも自由に行き来できる」以上の理解はしないけれど、千吉も勇も、当時の価値観や自分たちの望み(それは理想の長男だった稔に望むものでもある)を投影させて「稔ならそう言うはず」と言い切っているんですよね。
そしてこの対比が着々と進む中で、今生きている るいの望みは誰も聞こうとしない時間もまた並行し進んでいる。

 



#037 1月14日(火)


・本放送のときはこの回の日、朝のBSで早カムしている相互さんたちが言葉にならない叫びを上げていらしたのを懐かしく思い出す、負のピタゴラ装置スピードアップ回。

・それにしても、ここまで「安子が少し妥協してでも勇のプロポーズを受け入れさえすれば全て丸く収まるのでは」と「安子が勇と再婚することは、ここまで積み上げてきた彼女のささやかな自負さえ手放し沈黙することでは」をじりじり並立させてきた上で、その均衡ごと、朝ドラ定番【ずっとヒロインに片思いで支えてくれる一途な幼馴染】属性の壁を全力でぶっ壊す勇ちゃんの人間くささが、とても藤本脚本んんん…まんじゅうこわい(鳴き声)

・雪衣さんの「無様ですね」に滲む、一度は思いを断ち切ったはずの、それでも確かに愛していた人への突き放した哀れみ、その無様さを分かった上で受け入れてしまう自分自身にも言っているような「ひでえ人じゃね」のトーンが、ヒリヒリしていて凄まじい。稔の弟、雉真の坊っちゃん、安子の幼馴染、欲望を抱えた男を行き来する勇ちゃんの揺らぎと併せて。
で、このシーンの温度と、明日の回で起きることを考えると、やはり雪衣と勇は前から(戦前的な坊っちゃんと女中の割り切ったものとはいえ)関係を持っていたのではと思えてならないのです。
だとすれば結局、安子が勇と再婚したとしても、うまくいっていたかどうかは微妙な話になる。

・そして再放送で改めて見て思うのは、安子が、るいか たちばな再建か英語か、どれか一つでも諦めていれば良かったのでは…と一見安易に断じられそうなそれらも、安子の中では、一部を諦めて切り離すことはできないほど分かち難いものになっていく道筋が、こんなにもじっくり描かれていたんだなあということ。

安子がささやかながらも自活し、稔が娘の名前「るい」に込めた意味をこの手で実感した大阪時代を支えたのが、たちばなのおはぎで、母子の幸せな時間と深く結びついていたのが英語講座。
岡山に戻ってきて、おはぎづくりも英語学習もその意味を一旦見失いそうになるも、ロバートに掛けられた言葉で、安子の中で英語学習は死んだ稔を思うことだけでなく、「今ここに生きている」こととイコールになり、おはぎをつくることは、実家から継いだものというだけでなく、るいへの愛情表現として一体化する。

安子にとって、おはぎをつくり自活すること、英語を学ぶことは、「そねんして生きとる私の姿、るいに見てもらいてえ」を語るとおり、るいを愛することそのものになっていたわけで、るいが一番大事であることも、たちばな再建に拘ることも、安子の中ではどちらも真実で矛盾していない、というより、「ひなたの道」の中で同一化しているんですね。
とはいえ、額の傷をたてに雉真から るいを出さない千吉へきちんと反論できないぐらいに、それをまだ言語化できてないんでしょうけど。だから、るいも安子の真意を疑ってしまう。

この、安子に大事なものが増えていくほど、第38回への道が粛々と固められていった過程に、再放送で改めて溜め息が出てしまう。

・安子はもうちょっとホウレンソウを…と本放送の頃はハラハラしていたけど、再放送でこう見てみると、言葉が足りないながらも、これ母親として精一杯ぎりぎりのラインで説明を試みてはいたんだなあ。
額の傷と治療費の件を詳しく言っては、るいが千吉や雉真家に、そのせいで母親と引き離されたと悪感情を抱きかねない。これからも雉真家で育てられる娘に余計なことを吹き込まないよう最大限ぼかした「るいが幸せになるために必要なこと」という表現。
算太の持ち逃げを隠したのも、ランドセルを真っ先に見せにいくほど懐いていた愉快な算太おじさんが泥棒したなどと、幼い娘に知らせたくなかったのかも。

・この気遣いのすれ違いが、やがて、るいのきっぱりした怒り「私の幸せを決めんとって」へ繋がるかと思うと……。

・いやほんと、算太がちゃんと信金に行って当初の計画どおり店を出せたか、せめて金だけでも取り戻せて店は無理でも安子が商店街そばで細々と自活する道が残せていたなら、安子も「毎日会いに来る」の約束だけは守ることができ、きぬちゃんの楽観どおり、るいがいつか事情を飲み込んでくれる未来がもしかしてあったかもしれない。と思うと、本当にピタゴラ装置ぃぃ……。

・本放送当時はまだ紙版だったステラで濱田岳さんが算太の出奔について、決して失恋で自暴自棄になったわけではない、戦争でつらい思いをして家族を失い、雉真家が良くしてくれてもそこに落ち着ける場所はなかった、時代の波に飲まれて居場所を失った結果の行動だ、と語っておられたのが印象的で。
お下がりの背広でガラス窓に映る自分の姿にふと自嘲し笑い出す、その一瞬だけで、算太のこの複雑な感情がありありと伝わってくる。



#038 1月15日(水)


・物語の終盤で、歳月を経たからこそ るいが雪衣さんに渡せる言葉「みんな、間違うんです」を、今からしみじみと抱きしめたくなる2周目の第38回。(カムカムで最も好きな台詞の一つ)

・心臓がヒュッとなるこの回はあまり見返していなかったため、今回の再放送でいまさら気づいた。るいが「I hate you」と母を拒絶した瞬間、安子の世界から音が消える演出は、第20回で安子が稔さんの戦死を聞いた途端、音がふつりと喪われる演出と同じなんですね。
きぬちゃん出産、健一さんの帰還など慌ただしくも喜ばしい出来事にかかっていた『On the Sunny side of the Street』が、雨で震える安子のシーンに切り替わった途端、雨の音でかき消され聞こえなくなっていたのもあり、余計に絶望感が増す形で。

もしかして安子、稔さんの戦死を知ったあの頃から、実は心のどこか一部が壊れ続けてたんじゃなかろうか。それが、金太や美都里のように分かりやすい現れ方をしていなかっただけで。

そして、るいの心に雪衣の言葉が後からじわじわ効いてきて独り合点してしまったように、安子の心にも美都里の罵倒「疫病神」が後から、今更ながら効いてしまったように思えて仕方ない。
るいは、母から見捨てられ雉真に「お返しされた」のは額の傷のせいだと幼いなりに解釈したのでしょうけど、安子は、その額の傷をわざわざ見せて娘が示した拒絶に、自分の”罪”を突きつけられた気持ちになってしまったのでは。そうだ、娘のこの傷は私のせいなのだ。私が大阪へ連れていかなければ。私が「当たり前の生活」など望まなければ。いっそ私さえいなければ、と。

・だからこそ、あそこでロバートが河原に現れなければ、もう安子は死にかねなかったでしょう…と、2周目でも改めて思うのです。そう思わされるぐらい、河原へふらふらと向かう安子の背中が、もはやこの世の者ではない気配で。
後々のるいのためにも、安子がやっと摑まり辛うじて命を繋ぐ救命具になってくれてありがとうロバート。

・なので、終盤アニーの告白「消えることが私の祈りだった」も聞いた上でこう改めて見ると、安子がロバートと再婚したのは、進んで選んだというよりもう本当に結果論というか、それ以外の道を失い尽くした果てで、むしろ主眼は自分という”疫病神”を るいの前から消す、遠いアメリカまで引き離すためだったんだなと。
もしあのまま無事に店を持てていたら、それを元気に切り盛りする安子に対しロバートは「一緒に米国に来てほしい」なんて言えなかったろうし、安子も、ほんのり好意を抱いた優しい人のまま美しい思い出で終わったんじゃなかろうか。
その意味では、戦争がなければ安子と稔は結婚できなかったのと同じように、安子とロバートも、るいとの悲しい決別がなければ恐らく再婚していなかった2人なんでしょうね。

・というか、この最悪ピタゴラ装置の最初は、そもそもロバートが安子へ花を渡すのを勇が見てしまったところから始まったのを思うと、そこから転がり落ちていく安子という球を最後の最後でぴたりと止めるのが、ぐるっと回ってそのロバート本人だったという構造が、また。

・しかし、本当にこのすれ違いピタゴラ装置がよくできているというか、今日の回だけでも、もし きぬちゃんが産気づくのがあと数時間だけでも遅ければ、きぬちゃんが直前に言っていたとおり定一さんの店にも知らせが行き、それでるい捜索をに加わった定一さんか水田家(=安子を気遣うサイド)の誰かが、ショック状態の安子を発見してくれた可能性もあるんだよなあ。
そうすれば、金を持ち逃げされ無一文の独身女性、かつ雉真家にはもういられない八方塞がりの安子でも、とりあえずこの街に居場所を持てたはずで。それでいつか、るいの誤解を解くチャンスを待てたかもしれず。


・幼いるいが大阪まで来れたのは、藤本作品らしい御伽話的な飛ばし方もあるけど、直前に千吉おじいちゃんと大阪まで行った経験も一応作中で提示はされてるんですよね。時代は少し下るものの、手塚先生の奥様のエッセイで、電車とバスの乗り継ぎで家から1時間以上かかる私立小へ、過保護にならないよう1人で子供を通わせた記述があるので、少々無茶でも、絶対に不可能とも言い切れない。

それと、るいのあの新しい制服もうまく作用しちゃったのかなと再放送でふと気づく。
るいの制服は勇が新規で取ってきた新年度導入の仕事。つまり周囲の大人たちも見慣れず、どこの学校だともすぐ分からない制服なわけで。しかも入学式の日ともなれば、長距離移動中も周囲の乗客には、沿線のどこかの新入生かぐらいに思われスルーされてしまった可能性もあったんだなあと。

・何にせよ、るいの賢さと行動力がピタゴラ装置の一部ともなってしまったわけで、だからこそ、母への拒絶というダメージを自分自身でも深く受けてしまった るいが、その賢さと行動力で傷を塗り替えていく るい編は、明るい祈りだと思うのです。
安子のように絶望し、「自分といると不幸になる」と るいの前から姿を消そうとした暗闇期ジョーさんに、「何が私の幸せか勝手に決めつけんといて」と(本来は安子や周囲の大人たちにも言いたかったはずの)怒りを口にし、去ろうとする大事な人をしっかり捕まえられたのが、20歳のるいなのですから。

・安子編ラストの幕引き。全ての絶望を引き受ける上白石萌音さんの演技はもちろん、最後のとどめを刺す「I hate you」に説得力を乗せた子供るい古川凛さんの演技が壮絶だった分、その子役さんが演技で受けるだろうダメージに当時は内心ハラハラしていたので、後にこのキャスト2人で上書きする場面があって、物語的にもメタ的にも良かったなあと思う2周目。

・そして安子編ラストで13分目に入るOP。「君と私は仲良くなれるかな」の歌詞が、こんなにも重い意味を持って響くことに、改めて感嘆してしまう。主題歌と物語の相互性。

・と同時に、『アルデバラン』の歌詞に感じ入るたび、本放送時の『SONGS』AIさん回、大泉さんがちょうど『鎌倉殿』撮影中で、頼朝メイクの髭をつけている時に朝ドラがかかる、もはや『アルデバラン』は私の主題歌と思ってますよぉ!と話していたのも思い出して微笑してしまうのです。
つまり、君(坂東武者)と私は仲良くなれるかな、平家の世が終わるその前に 的な。

・…と、大泉頼朝ギャグパートで心を中和したくなる。2周目でも。

・本放送時の感想再掲。

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これと別のツイでも当時呟いたけど、藤本脚本に手塚マンガみを感じるのも同じ理由で。登場人物への「正しさ」や「共感」を求めたり、ジャッジがしたいわけでもなく、ただただ物語の大きな構造の中で飲み込まれていく宿命そのものを見守りたくなる感覚というか。
というか、そういう手塚マンガ育ちなので、藤本脚本にどうしようもなく惹かれるとも言える。(藤本先生、世代的に、手塚先生から直系第1世代のマンガで育った方の感性と作劇だよなあとしばしば思う)

・そんな物語の構造にもえる人間としては、明日からのるい編はいよいよ本番です。安子編の重ね塗りスタートでもある。



#039 1月16日(木)


・安子編と同じ「A long time ago…(むかしむかし)」で幕が開く、るい編の始まり。
この映画仕立ての短い映像に、安子や橘家、雉真家、朝丘商店街の人々、どれほどの人生が詰まっているか、安子編を経てきたこちらは知っている。そう思うと、今はもう懐かしい安子編のあの冒頭「A long time ago…(むかしむかし)」に映っていた小しずさんや ひささん、他の人々にもまた同じぐらい分厚い過去のドラマがあったのだろうと、振り返って自然に思いを馳せられる。百年の物語の醍醐味。

・千吉さんは亡くなり、勇ちゃんも跡継ぎを持つおじさんに。気の利いた女中時代と変わらず仕事をきっちりするとはいえ、雪衣さんは居間でドラマを見る=自分の娯楽時間を取るようになる。安子がいなくなってからの変化と歳月を感じる数分。
そしてこの回、新章に入った何よりの象徴は、さりげなくメディアの主役がラジオからテレビになった描写だったことに、2周目で感じ入るのです。ここから、毎日15分変わらずある日常の積み重ねとして、ラジオ講座と並行して朝ドラそのものにも自己言及していくのも『カムカム』の楽しさなんですよね。

・何より変わったのは、女一人で「家」を出ることが、こんなにも軽やかになったことだよなあ…と。
もちろん18歳のるいにとっても、辛い思い出のある岡山と雉真を出ることは「二度と戻らない」きっぱりした決意なんですけど、安子が自活を望み大阪へ向かったときは悲壮感あふれる無謀な覚悟も同然だったし、岡山に戻ってからは算太という別の家長の提案がなければ雉真から独立した生業を目指すことすらできなかった(信金に行く=取引できるのはあくまで男性)。対してるいは、「雉真の子」という桎梏を堂々と抜け出すべく、未成年で家族に隠れながらでも資金を貯めるアルバイトができ、今日の回では一旦落ちたとはいえ都会へ出れば就職のアテもあるんですよね。社会の豊かさとともに、女が働く場も確実に増えている。

ここから るい編は、安子の挫折を無意識のうちに上書きしていく るいに、彼女自身の強さ賢さとともに、時代のよき変化も感じてホッとするんですよ。安子の望みは途方もないものではなく、少し時代さえ違えば叶う当たり前のものだったのではと。

・そして、いろいろ変わっている中でも、勇ちゃんは相変わらず野球例えをする野球一途バカだし、安子のあんこ炊きと同じく雪衣が朝ドラ最終回見てる途中でも声を掛ける間の悪さだし、でもるいとのキャッチボールから、互いに遠慮がちながらも叔父姪の仲は決して悪くなかったことが伺える。何より大阪の街には今もモモケンの映画がかかっている嬉しさ。
雉真の1番バッターが足袋でずっと不動なように、時代を越えて変わらぬものがある(それは人の性質の長短も)というのも、『カムカム』の通奏低音ですね。

・本放送のとき、この一瞬映るモモケン映画の看板に、ああモモケン健在嬉しい!でも るいはこのシリーズが両親の思い出の映画だと知らないんだ切ないいいい!と悶えていたら、まさかひなた編であんなにもモモケンが絡み、最後の最後でトリガーになるとは思いもしませんでしたよ…。

・るい編幕開けを彩るミュージカルシーン。今日の堀之内Pの追想記で、台本段階からミュージカル指定だったと知り、さすが『ちかえもん』の藤本さん…と納得で、ふふっと笑ってしまった。確かに昨日までの安子編ラストの空気をがらりと変えるには、ここまでの切り替えが必要だったはずで。これを見事に仕上げた演技演出の総合技がすばらしくて、この回はやはり大好き。

・そして、この夢のようなミュージカルシーンの延長線上で登場した濱田マリさんと村田雄浩さんの安定感で、もう大阪編の空気が確定するんですよね。
雉真家の人々に気遣われてはいた、でも額の傷とともに心を固く閉ざしていた17歳の少女が、テレビの漫才を見て屈託なく笑う商店夫婦の間にスッとおさまり、一緒に笑ううち涙が止まらなくなる。このシーンだけで、ああもう るいは大丈夫だ、安心できるところに流れ着けたんだと思える竹村夫妻のキャスティング。

・特に濱田マリさんは、『カーネーション』安岡のおばちゃんだけでなく、『マッサン』では英国人牧師と結婚し、主人公エリーを手助けする役でもあったので、幼少期は英会話に親しみつつ、その英語で母を拒絶した記憶を傷に持つるいを温かく迎える役として、朝ドラ・スターシステムとしては、もう出てくるだけで安心できる。
配役の大勝利。



#040 1月17日(金)


・OPに表記されるオダギリジョー氏の役名が「宇宙人」なところから、もうニコニコが止まらない本日の回。

・詳しくは言わず聞かず、「大事にしたげよな、あの子のこと」、その会話だけで一人の17歳を引き受けた責任を確認し合う竹村夫妻が、何と優しく大人なことか。
そんな二人のぽんぽん明るいやり取りに引っ張られてか、一見大人しい るいの心の声もこころなしか弾んでくるのが、もう嬉しくて可愛らしくて。そしてここで、安子編における安子の内面はほぼ城田ナレーションで代弁され、安子自身の声ではほとんど語られていなかったことにもふと気づく、物語の仕掛け。

本放送のとき、客の預ける服から るいの想像があれこれ膨らむのは、古本屋さんバイトでの接客と読書量で鍛えたもの、そしてラジオからテレビで受け取る情報量が格段に増えた時代の変化も指しているのかと感じたのですが、この物語が ひなた先生の講座テキストだと知って見る2周目だと、また別の理由も見えますね。
ひなたが毎朝あずきを炊きながら母に聴き始めた、ほんの少し過去のお話。おばあちゃんから聴くおとぎ話のような昔話よりもグッと距離は近く、話す るい自身もわだかまりが解けつつあった頃からぽつぽつ話してた内容だから、自然と彼女自身の心の声は多くなる。
こんなところにも、ひなたが2020年代の現代から振り返る三世代百年の厚い地層を感じるのです。

・テレビの漫才で笑い転げる家族の団らん。案内された住込み用の和室から見える外の若葉。店主と店員が仲良く囲む食卓。近所の人が気軽にふらっと立ち寄る店先。そして、「受け取るお客さんのうれしそうな顔」が自然と思い浮かべられる仕事。
るいが知らないはずの、でも安子が必死で取り戻し るいとともに暮らしたかった戦前のたちばなでの暮らしと商いが竹村クリーニング店にそのまま在ることに、胸がいっぱいになる。

・宇宙人ジョーさん、この時点で竹村クリーニングに初来店らしい様子ということは、ナイト&デイに定住し始めてから今まで、洗濯物はどうしてたんだろうな…。別のお店に持ち込んでたのか、それとも自分でワッシャワシャ不器用に洗っていたのを、マスターか誰かが見かねてクリーニング屋というものを教えてくれたのか。
何にせよ、文字どおり音楽以外の部分がすっぽ抜けていたこの頃の「宇宙人」ジョーさんが、やがて徐々に大月のお父ちゃんになっていく過程を思うと、またニコニコしてしまう2周目。

・ところでこの回は、本筋と関係ないところで、宇宙活劇映画『逆襲!宇宙海賊船』のいかにも60年代初頭特撮パロディとしてありそうな絵面にも、笑みが止まらないのです。
後の劇中作『隠れ里』や黍之丞おゆみちゃん回もそうだけど、藤本さん、こういうトンチキ作品というか、評論家やアングラサブカル層のようないわゆる見巧者の高評価範囲からは微妙〜に外れる、でも好きな人はたまらなく好きで突き刺さる作品の解像度がやたら高いし、またNHK(特に大阪)の制作陣もそういう脚本の再現度にはやたら力が入るんですよね。大好き。
そして藤本脚本は昔から、そういう決して広く高く評価されるわけではない作品(もしくは人)が、誰かにとっては尊く特別な存在になり得るのだと、一貫して描いていることも大好きなのです。

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